「万能酸」とは、アメリカの哲学者ダニエル・デネットの言葉である。僕がこの言葉を知った『理不尽な進化』(吉川浩満 著 朝日新聞社 刊)において「万能酸」とは、我々のものの見方を一度侵したらもう終わりであって、その便利さで手放せなくなるし、この世の全てを溶かして侵食する勢いをもつものであるというふうに説明されている。
そして、ダニエル・デネットは「進化論」が「万能酸」であるといったのだ。世の中を見れば、「進化系〇〇」とか「この世界では”適応”しないと”淘汰”されるよ」だとか、「強者男性・弱者男性」だとか、あらゆる「進化論」ワードが飛び交っている。「進化論」ワードを使えば、自分の成功も、他人の失敗も、マーケティングも、あらゆることを的確に(おもえる)説明を施すことができてしまう。まさに「万能」なのだ。
そして、現代では「エモい」という言葉が「万能酸」になっているのではないかと思う。
「エモーション/エモーショナル」の「エモ」なのか、「得も言われぬ」の「得も」なのかは知らないが、我々が心を揺り動かされたり、じーんと染み渡るような感動に包まれたとき、「エモい」という言葉が使われるようになっている。これも「万能酸」のひとつではないだろうか。
我々の心に去来するさまざまな感動を「エモい」の一語で溶かし、同質のものに還元しかねない、強力な言葉である。しかし便利な言葉であって、たいてい「エモい」という言葉が口をつくときは言葉に言い表せない感情が心に渦巻いているときであり、どうしたって説明できないのだから、「エモい」と言うしかないのである。これを古くからの言葉でいえば、「いとをかし」だとか、「もののあはれ」だ、という意見もある。昔の人だからといって、的確な言葉づかいで感動を表明していたわけではなく、いつの世も、どうしたって説明のつかない感動をとりあえず言い表す、仮置きのような言葉はあったというわけだ。
とはいえ、僕の語彙に「エモい」は組み入れられていない。できれば使いたくないと思っている。言葉は生き物なのだから、時代によって新たに生まれたり、意味が変わってしまったりするのもうまく乗りこなして生きていたほうがずいぶん楽なのだろうが、感動を表す「琴線に触れる」を「逆鱗に触れる」とごっちゃにして怒りの感情を表しているなんて誤解が広まりつつあるのを見ると、言葉の変化にはついていけない、ついていきたくないという思いも生まれてしまうのだ。
「エモい」を僕が使わないのは、まさにその便利さゆえであって、とにかくなんでも「エモい」で済ませてしまうことに懸念を抱いているのだが、「言い表せないこと」人間にはどうしてもあるのだから、それを表明するための言葉も必要だなと思ったりもする。心の中をそのまま「言語」にして取り出すには、あまりにも語彙が少なすぎるのだ。「言語」によって枷をかけられているといってもいい。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で、「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」といった。どうしたってものを考え、語るには言語は必要なのだから、それ以上のことに僕たちは立ち入ることができない。言語にないものを語ることができない(むしろ、語りえないことを饒舌に語るのは欺瞞になるとウィトゲンシュタインはいう)。だから、「エモい」というプレハブが必要なのだろう。
そういえば、カレーなどのスパイス料理を食べたときに「スパイシー」というのも、「エモい」と一緒ではないかと思う。我々日本人はとにかくスパイスに対する語彙がなさすぎて、とりあえず口中と鼻腔を満たす刺激に対し、「スパイシー」、あるいは「エキゾチック」「エスニック風味」などと表明するしかない。これもスパイスの香りの多様性と多層性をスポイルしてしまう言葉にほかならない。「エモい」と同様に、言葉にしようがないから、口にすると「スパイシー」になってしまう。思ったことをそのまま言葉として取り出すのは本当に難しいのだ。
普段から、思いついたことはすぐにメモ帳に取ることにしているのだが、思いついたことをそのままにメモに書き留められたことはほとんどない。思考を現実世界に「転写」する際には、絶対に抜け落ちてしまう部分があるのである。そして、型枠にはめられて変形してしまっている。
「エモい」というときも、「スパイシー」というときも、それで表現したから終わり!というのではなく、何を言い表すことができなかったのか、というのは考えるようにしたい。そして、なんでもかんでも語ろうとせず、時には胸に秘め、わからないのならわからないままで味わってみる、というのも必要なのではないかと思う。無理に話す必要はない。話した瞬間にそれは姿を変え、他人に伝えるための言葉だったはずが、自分の認識さえも変容させてしまうだろうから。
今回の一汁一菜

2025/12/25分
小松菜・にんじん・油揚げの味噌汁
大根の醤油漬け
ゆず入り椎茸の佃煮
だんだんと大根はいい感じに漬かってきている。
クリスマス・イブは家でクリスマスディナーを食べたが、2日連続パーティとはいくまい。クリスマスだろうが、一汁一菜である。
参考文献
・古田徹也『シリーズ 世界の思想 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』角川選書
・吉川浩満『理不尽な進化』朝日新聞社





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