物理学者の野村泰紀教授があるYouTube番組に出演した際に「僕らはみんな昔散った星の一部から生まれてるんだ」という趣旨のことを言っていた。僕はこれに脳天を衝かれた。ディレクターは「ロマンがありますね」なんて言っていた。確かにロマンはある。でも、僕にはもっと別の意味に聞こえていた。「ああ、僕らの身体や周りのものを構成している物質は、“今、たまたま”それを構成しているだけで、いずれまた星に還っていき、また別の生命の糧になるんだ」と。このとき、僕はブッダの色即是空・空即是色が「わかった」のだ。人間の生命の長さで、ものを考えている限りブッダの考えは理解できない。ブッダはもっともっと長い、星の生命の長さで、ものを考えていたのだ、と。
何気なく開いた動画で、前からずっと思っていたけど、繋がっていなかったものがその一言で接続され、ストンと腑に落ちた。どんな説法を聞いても、「はあ、そうですか」と素通りしてきた僕だが、これはまさに電撃的な言葉との出会いであり、ある種の宗教体験といってもよい。
このように人の生命の時間ではなく、もっとそれよりも長い時間でものを考えるさまを、井上章一は『夢と魅惑の全体主義』において、「非人間的で、虚無的な思考」(p.120)であるといった。もし、あなたがそう思うのなら、ここでブラウザを閉じてほしい。そう思わないのであれば、読み進めていただければとおもう。
人間は大きな脳を持ったがゆえに、「生きる意味」というものを考えるように“なってしまった”。自分はなぜ生まれ、なぜ生かされ、どのように死んでいくのか……それに答えを与えていたのは宗教であったが、その力が弱まり、哲学が抬頭してきた。その問いは世界の存在の解明へと向かうも、結局今も明快な回答は生まれていない。というか、これから先も、考え続けるプロセス、動態としては存在し続けるだろうが、ゴールはないだろう。
人間は考えることができてしまうがゆえに、考えずにはいられない問題になっているのが「生きる意味」である。だが、僕はそんなものないとおもっている。なぜ人間だけが特権的に「生きる意味」を与えられているなどと思えるのだろうか。そんなの思考が生んだ「発明品」でしかない。
仮に、人間には「生きる意味がある」というのならば、それはすべてのものに対して「存在する意味がある」ことを認めなければならない。Aには存在する意味があって、Bには存在する意味はない、と人間が特権を振るって選別行為を行なってよい理由などない。僕は今、「神がそう言ったから」という話はしていない。
一方、人間に「生きる意味なんてない」とおもうのならば、それはすべてのものに対して、「存在する意味はない」と表明せざるをえない。地球上で何が繁栄し、どんな弱肉強食が行われようと、そんなの地球からしたら知ったことではない。僕は今、星の生命の長さの視点から話をしている。
ただ、僕はいずれにせよ結局「全ては等価だ」という話をしている。「万物斉同」といってもよい。僕のこの考えを補強してくれたのは、リチャード・ドーキンスである。
リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』において、遺伝子のことを「不滅のコイル」と表現した。個体の時間なんて、遺伝子からすれば儚い一瞬である。それでも、有性生殖の場合、パートナーを変えてあらゆる組み合わせを試しながら、遺伝子だけは進み続ける。何世代も僕たちの身体を通って生き続ける遺伝子のさまを指して、「不滅のコイル」といったのだ。遺伝子の目的は、コピーを作り続けて永遠を生きることである。では、一時的に遺伝子が組み合わさって設計され、生まれた僕らの身体はいったい何なのだろう。それを、「乗り物」とリチャード・ドーキンスは表現する。
遺伝子が僕らの身体に一時的に乗り合わせて、また次のパートナーを見つけるように「操縦」するのである。そしてパートナーが見つかったら、そこで「乗り物」に子をなすよう要請し、遺伝子は新しい「乗り物」に自身のコピーを写す。この繰り返しで遺伝子は「不滅のコイル」となるのである。僕らは、あらゆる動植物含め、遺伝子の「乗り物」なのであって、遺伝子によって仮初の肉体を与えられ、それを次の世代にバトンパスするためだけに存在する。これを聞いてもなお、人間(だけ)に生きる意味があるなんていえるだろうか。

しかし僕がいいたいのは、「生きる意味がない=死」ではない。むしろその逆である。「生きている意味なんてない」からこそ、僕らを縛る軛から解放され、あらゆる可能性が解放され、なんでもできるようになるのである。僕らがこの世の中を息苦しいと感じるのは、たいてい遺伝子の保存に関する問題なのである。
いい大学に行き、会社に入り、いい給料をもらおうとするのはなぜ?理想のパートナーを求めて自分磨き、あるいは他者の値踏みばかりするのはなぜ?なぜあの人よりも自分が優れていることを示さないと気が済まないのだろう?
いずれも、「乗り物」たる僕らを生存せしめ、より有利な状況でパートナーと巡り合わせ、よりよい状態で次の「乗り物」を準備させようとする遺伝子のせいである。そして、これを僕らは「生きる意味」だと勘違いさせられてしまっている。使命感すら抱いている人もいるのではないか。でも、僕らは一時的に遺伝子の設計図に基づき、肉体を構成されこの世に生を享けただけの存在である。「不滅のコイル」たる遺伝子の要請に基づき、ただ次の世代にバトンを渡すだけの存在である。そこにはたらいているのは、ただのメカニズムだ。それを人間は「生きる意味」とすり替え(られ)てしまった。
だから、すり替えられた「生きる意味」を捨てて、自由になればあらゆる悩みが消え去る。じじつ、僕はここ数年、悩みがない。なぜなら、世間での成功も、パートナーの獲得も、どうでもいいことであり、捨ててしまったからである。本来ならばそこに傾けられる努力を、すべて自身の生を楽しむ方向に振り向けてしまった。遺伝子の保存に対する「乗り物」の反逆である。
リチャード・ドーキンスは前出の『利己的な遺伝子』において、遺伝子は「方針決定者」、脳はその「実施者」であるといった。僕はその「方針決定者」を「乗り物」から降ろそうとしているのである。だが、僕の遺伝子はしつこく僕の身体を次世代の「乗り物」を用意する方向に進ませる。だから、誰がハンドルを握るのかという戦いがおこっているのだ。
なぜ深夜のポテチや卵黄やチーズしたたるハイカロリーな食事をやめられないのか。高エネルギーな食事によりよく反応するほうが生存に有利にはたらくからである。そうプログラムしたのは誰か。そう、遺伝子である。僕はそういった食事をなるべく回避する、という小さなことから遺伝子の要請をキックし続けている。一汁一菜もその試みのひとつなのである。放っておくと、生命維持に過剰なカロリーを摂取させようとしてくる遺伝子への反駁なのだ。
今の人間社会は社会的な要求と遺伝子の要求が噛み合い、誰にも止められない社会の推進力と化してしまっている。それに乗っかることで得られる享楽もあるだろうが、僕には残念ながら社会に適合できる能力がなかった。だから、降りることで得られる享楽へと向かったのだ。
遺伝子との戦いといっても、大したものではない。僕にとっては、欲しくて欲しくてたまらないものが手に入らなかったときの苦しみをわざわざ味わうことに比べたら、遺伝子との格闘は、ささやかでつつましく、児戯にも等しいものといえる。
ところで、僕は遺伝子は残さないことにしている(今のところ)が、「意伝子」は残したいとおもっている。今では「インターネット・ミーム」のようなかたちで使われる「ミーム(meme)」という言葉を考案したのは、ほかでもないリチャード・ドーキンスである。松岡正剛はこれに「意伝子」とうまい訳をつけた。
「ミーム」とは文化伝達、あるいは模倣の単位である。こんにちでは、インターネットによって爆発的に、そして爆速で拡散されていく。「乗り物」から「乗り物」ではなく、脳から脳へ渡り歩く自己複製子ともいえる。
僕はこの「百汁百菜」をつうじて、あらゆるものを取り上げていき、誰かに「ミーム」のバトンを渡していきたいとおもっている。生存価、つまり感染力は微弱であろうけれど、誰かに深く刺さればよい、そうおもってこれからも続けていこうとおもっている。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/26分
れんこん・しめじ入り粕汁
(その他豚肉・にんじん・油揚げ・大根・白菜入り)
大根の梅甘酢漬け
大根の梅甘酢漬けがだいぶ色づき、しっかり漬かってきた。
参考文献
・リチャード・ドーキンス(著) 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二(訳)『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店







コメント