0044 「つかう」とは「付き+合う」こと

百汁百菜

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 哲学者の鷲田清一は『つかふ 使用論ノート』において、「つかう(つかふ)」のなりたちについて、古典の辞典を引きつつ、次のように述べた。

 その「つかふ」(使ふ・仕ふ)という語はそもそもが、「付き」と「合ふ」が結合してできた語だといわれる。
(中略)
「付き」は「相手に密着する」こと、「合う」とは「相手の重みや心の動きに合わせる」こと。何のことはない、「つかふ」とは「つきあい」のことなのだ。

鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.14〜15

 上の引用では省いたが、「つかふ」という語は前掲書内で参照されている、大野晋編『古典基礎語辞典』によれば、「ツキ(付き)アフ(合ふ)の約」とされている。では「つきあう」とはなんだ。鷲田清一はいう。「相手が人であれ物であれ、それを使うなかには、相手に合わせる、そのことでじぶんも変化してゆくということが、この語に本質的なこととして含まれている」(前掲書、p.15)と。
「つかう(とくに、使う)」という語はついつい一方的な使役をおもわせる。一方がイニシアチブを持ち、もう一方はただそれに従うだけというイメージが湧いてくる。でも、「つかう」はもともと「つきあい」だったのだ。そして、そこには相互に影響を与え合い、変化してゆく関係性がひそんでいる。人と人ならば、相互関係が理解しやすいかもしれない。上司と部下、師匠と弟子、客と店員、教師と生徒……必ずしも一方的ではない(のが理想だ)。よく先生側がいうだろう、「子どもたちに教えられている」と。では、人と道具はどうだろう。
 道具こそまさに一方的に人が支配し、使役するもののように思われている。二本の足で立つようになり、石を手にしたときから、ずっと道具は「使われる」ものであった。道具は人間の「便利」のために開発、発明されるものである。だが、その道具から人間も影響を受けているということは見逃してはならない。鷲田清一はいう。「道具を使うということは、道具というモノの(わたしたち自身とは異なる)構造を受け容れることで、逆に自己の可能性の範囲を拡げてゆくことである」(前掲書、p.17)と。そして、「道具は身体を拡張したものになるとともに、身体のはたらきもまた道具によって変容させられてゆく」(同)のである、といった。
 我々は包丁なしに野菜を食べやすい大きさに切ることはできない。ちぎる、砕く、えぐる、潰すことはできても、綺麗に切りそろえたり、隠し包丁といった「仕事」をすることもできなければ、美しい模様を果物の皮に刻むこともできない。さまざまな道具によって、我々の身体は拡張されている。しかし、その道具を最初からうまく使いこなせるか、といえば話は別である。
 包丁を握ることに恐怖を覚える人は少なくないだろう。利き手の反対の手をどう置けばいいのかもわからなかったり、身体のボジションもわからなかったりする。いちおう、利き手が右ならば、身体はまな板と並行にするのではなく、少し右足を奥に引いて斜めに向かい合うのが良い。左手はよく「猫の手」なんていうが、本当に猫のような手だと指が丸まりすぎて、食材を抑えにくくてしょうがない。正直、「虎の手」のほうが近いのではないかとおもう。「ガオーッ」と人をおどかすときにするジェスチャーのような手だ。このように、包丁ひとつとっても、ただ持って振り下ろせばいいのではなく、身体の向き方、反対の手の添え方など、身体のはたらかせ方が道具によって影響を受けている。道具の特性が身体に流れ込んでいるといってもよい。そして、包丁がうまくなればなるほど、指先の感覚は包丁の刃まで達し、いずれは古代中国の丁さんのように「道」に通ずる……かもしれない。

使用とは、使用者がみずからの構造を物に押し付ける、つまりそれを統制下に置くということではなく、異なる構造を受け容れることで逆に自己を拡げてゆくということなのである。道具を呑み込んでゆく過程は、道具に呑み込まれてゆく過程でもあるということなのだ。

鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.30

 さて、我々は包丁でものを切っているのか、包丁が望むからものを切っているのかわからなくなるときがある。たとえば、包丁研ぎから帰ってきたらついつい試し切りしたくなるだろうが、このとき、本当に我々だけの意思で試し切りしているのだろうか。包丁が「なにか切らせろ」といってきているようには感じられないか。車だってそうだ。車を走らせているのか、車が走りたいといっているから我々が乗り込んでエンジンをかけてやっているのかわからない。車に愛着を持って改造する人のなかには、「どこそこを走らせてやるからな」と声をかけることはないにしても、心の中ではおもっている人がいるのではないか。ほかにも、ロボット掃除機が動きやすいように家具の配置を考えるときはどうだろう。使われているのはどちらだろうか。
 道具に対して、「おまえもそうしたいだろう」だとか「早く試したくてうずうずする」などと人がおもうとき、もはや使用のイニシアチブは道具の中にある。人はこのとき、道具に使われているのだ。

 道具やものを見たとき、それをどう持って、なにに使うかを、道具の側から我々に対して促してくることがある。その促してくることを「アフォード」といい、その様々な「アフォード」の可能性があることを「アフォーダンス」という(松岡正剛『千夜千冊エディション 編集力』p.176)。包丁なら、握る・切るなどをアフォードしてくるし、車なら、走る・(ハンドルを)掴む・回す・(ペダルを)踏む・離す・(ドアや窓を)開ける・閉じる・(ツマミを)捻る・(ボタンを)押すなど、さまざまなアフォーダンスをもっている。紙一枚をとっても、折る・丸める・くしゃくしゃにする・破る・めくる・つまむ……と色々ある。
 こうしたアフォーダンスは道具やものの側からもたらされる。その手がかりをもたらすのが「シグニファイア」と呼ばれるもので、包丁ならば、刃の部分と持ち手の部分で分かれており、その多くが違う色、材質となっている。これがシグニファイアである。そして、それが手がかりとなって「刃の部分は切る」「持ち手部分を握る」というアフォーダンスを伝えているといえるだろう。人が道具を使うとき、道具側からも絶えずアプローチされているということだ。
 僕は車のシフトレバー(AT車)は元の位置に戻らないほうが好みだが、これはそのシフトレバーの位置がシグニファイアとなり、アフォーダンスをもたらしてくれているからである。たまに「D」に入れようとして、「B」まで入ってしまうことがあるが、それは「慣れ親し」んでいくうちに感覚でわかってくるようになる。いちいち元の位置に戻るシフトレバーがあるが、これはシグニファイアがないといってもいい。「慣れ親しみ」が都度無力化されているようにおもえるからだ。もっと道具の側から発するアフォーダンスに注目したほうがいい。それを取っ掛かりに、人間と道具のやり取りは深まっていくのだから。

 欧米式、もっといえば、キリスト教圏から生まれた社会基盤がこの世界を覆うとき、人が一方的に道具を「使う」だけの側に回っていると勘違いしてしまう。なにせ、キリスト教の教えでは、この世の人間以外の生き物を利用するのは人間の当然の権利となっているからである。人間以外の生き物は、好きに使ってよい。なぜなら、そのために神がつくりたもうたのだから——
 この考えをベースに生まれる道具は、「個人的な巧みさに依存せずに、誰がやっても一定のよい結果が得られるように工夫」(鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.43)され、「できるだけ人間以外のエネルギーを使って、しかもより大きな結果を得るようにすること」(同)が目指される。これがそのまま突き進めば、もはや人間不在となってしまう。自動運転などがよい例だろう。
 しかし、日本の文化のなかで生まれる道具は違っていた。「機能が未分化の単純な道具を、人間の巧みさで多様に、そして有効に使いこなそうとすること」(同)と「人間の労力を惜しみなく注ぎ込むこと」(同)が目指されているという。大工さんの道具などをみれば、それは一目瞭然だろう。それには人間の技術が要求され、仮に初心者が同じ道具を使っても、同じ結果は導き出されない。必ず「慣れる」、「馴れる」ことが必要になるのだ。箸もそうだろう。先が尖ったただの2本の棒であって、「機能が未分化」もいいところである。しかしこれを自在に操って人はものを食べる。掴む、刺す(1本だけ刺して、もう片方で掴むのはよいとされている)、引き上げる、流し込む……実にさまざまな使い方ができる(さまざまなアフォーダンスをもっている、といってもよい)のだが、永遠に「箸の持ち方」が話題になるぐらいには、人間の技術を要求してくる。箸の持ち方を指摘するやつは云々という意見をよく耳にするが、個人的には、見ている人は見ているのだから、つまらない理由で知らぬ間に減点されるぐらいなら、箸の持ち方を指摘する人間にブー垂れるよりも、さっさと直したほうがいいとおもっている。他人を変えるよりも、自分を変えるほうがよっぽど楽なのだから。僕はそうおもって、実際社会人になる前に直した。

 さて、日本の文化で生まれた道具は、人間の技術を要求する。鷲田清一はさらに日本式の道具について、「なにより体をアホにしないこと、そのためにあえて道具を改良せずにわたしたち自身が体の使い方を工夫することが求められ」(前掲書、p.44 引用にあたって傍点削除)ているといった。先の車のシフトレバーの話にこれをあてはめると、マニュアル車はまさに「体をアホにしない」ための車であろう。人間の技術と集中力、判断力を要求し、人間不在では決して動かないのだから。
 だが、道具使用から人間を排除する動きは今後ますます広がっていくだろう。「もう道具のほうだけで勝手に動いてやってますんで、ニンゲンは寝ていてください」というふうに。これではもう「つきあう」というよりも「つきはなされている」ようなもので、道具と人間との昵懇じっこんの仲はどんどん引き裂かれていく。「体がアホ」になった人間はこれからどこへ向かうのだろうか。道具との付き合いをやめて、人付き合いにシフトするったって、限界がある。頑張りすぎて疲弊することも大いにあるだろう。そうなったとき、道具との付き合いはやはり癒しになるのではないか。お気に入りのペンをあてもなく回したり、手触りのよいハンカチを撫で回したり、包丁でトントンと何かを切っていることに癒されるという人もいる。人は道具とともにある。簡単には手放すことはできないし、手放してはいけない。「道具のように」と人が言う時、たいていマイナスの意味で使われるが、道具との付き合いの中にも、深いやりとりがひそんでいることは思い出してみたい。

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今回の一汁一菜

2026/02/16分

ほうれん草・にんじん・油揚げの味噌汁
ベーコン・卵・白菜の炒め物(父親作)
わさび椎茸の佃煮
明太子

参考文献

・玉樹真一郎『「ついやってしまう」体験のつくりかた』ダイヤモンド社
・松岡正剛『千夜千冊エディション 編集力』角川ソフィア文庫
・鷲田清一『つかふ 使用論ノート』小学館

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