0016 心にちょいと「不良」を飼う

百汁百菜

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 作家の林真理子は「カレーと煙草」と題したエッセイにて、次のように言っていた。

 こんなことを言うと誤解を招くかもしれないが、私は不良をする人はそれなりにエラいと思う。
 世の中に逆らったり、いけないといわれるということをするのは、かなり強い意識と、大きなエネルギーを持たなければならないからだ。不良と非行はもちろん違う。不良が自分へと向かっていくのに対し、非行は世間への自己顕示である。甘ったれているから、拍手をする気は起こらない。

林真理子「カレーと煙草」『食べるたびに、哀しくって…』収録/引用は『アンソロジー カレーライス!!』収録分 p.50〜51よりとった。

 「いけないといわれることをする」といっても、不良と非行をきっぱりと分別して、内に向かっていくエネルギーが発露する形での「不良」を認め、外に向かってエネルギーを暴発させる形をとる「非行」を非難している。これを読んで僕は高校生のとき「非行」はやらなかったが、たしかに「不良」はやったものだと思い出した。
 といっても、煙草は吸っていない。もともと生理的に受け付けないから、30になった今でも1本も吸ったことがないし、死ぬまで吸わないと思う。酒はどうだ。これも当時は一切飲んでいない。べろべろになった父の姿を見て、飲みたいとも思っていなかった。今では週に1〜2回ほど飲むが、学生時代(もちろん、ハタチを迎えてからだ)の失敗を経て、酔い潰れるまで飲むということはしない。夜遊び?もちろん興味がない。なかなかの「いい子ちゃん」だ。
 でも、学校に行かなかった時期がのべ半年以上ある。親、学校への反抗心が高校生になって爆発したのだ。そういう意味での「不良」をやった。むろん勉強はさっぱりわからなくなった。が、全く後悔していない。林真理子のいう、「不良」をやったことによる「胸にじんとくるような思い出」はないが、「周りの期待をツンと突き返した思い出」が今の僕を支えている。

 さて、『嫌われる勇気』という本が2013年に出て以来、我が国では売れに売れまくっていて、今(2026年)ではさすがに落ち着いただろうが、僕が買った2020年には55刷を数えていたから、今ではもう80刷とか、もしかしたら100刷に迫っているかもしれない。とにかくずっと売れ続けている。いかに日本に「いい子ちゃん」が多かったのか、という話である。
 僕は「いい子ちゃん」な人に出くわすたび、もっと「不良」になればいいのに、と思っているのだが、『嫌われる勇気』は、「いい子ちゃん」をちょっと「不良」にする本ではないかと思っているので、さかんに読まれるのは僕としても生きやすくなるからとてもよいと思っている。ただ、多く売れた本の宿命として、誤読が溢れている。僕のこのちょっと「不良」にするなんて言い回しも、大いに語弊があるものだから、このあと説明させてもらうことにする。

 『嫌われる勇気』において溢れている誤読といえば、「嫌われてもいいからなんでもやってやる」といった外部不経済的な生き方を肯定している!というもので、特にこの本を読んでいない層に溢れているように見受けられる。それが本を手に取らなかった理由だなんていう人も多いから、どれだけ日本には「いい子ちゃん」が多いのだという話である。
 もちろん『嫌われる勇気』の中で語られるのは、「嫌われてもいいから〜」なんてことではなく、もしあなたの行為に対して、相手が期待通りの反応を示してくれなくても気にかけることはない(逆もまた然り)、ということだ。「他者の期待を満たして褒められたい=承認欲求からくる善行」は、容易に「認められないのなら非行をする」方向へと転化しかねないため、アドラー心理学では否定される。
 要するに、「他者の期待など、満たす必要はない」(p.135)し、「他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」」(p.136)ということである。相手の痛みに寄り添い、自らも痛みを感じて分かち合う……そんな惻隠の情を重んじてきた我が国に住まう人々にとって、とうてい容認できるような考え方ではない。『嫌われる勇気』内でも青年は「唾棄すべき危険思想」だの「悪魔的教唆」などと口角泡を飛ばして哲人を面罵する場面が描かれている。

 もちろん、かつての僕も青年側に立っていた。しかし、それが傲慢な考えだと、この本で気付かされたのだ。
 僕は他人の痛みがわかる人間だと思っていた。僕は他人の苦しみに寄り添える人間だと思っていた。僕は他人の喜びを分かち合うことができる人間だと思っていた。が、それは結局勘違いだった。わかるフリをして、「わかってあげている」自分を演じ、傲慢に振る舞っていただけなのである。その根っこには、他者の期待に応え、他者の反応を期待していたからである。
 僕は根っからの「いい子ちゃん」なんてものではなく、「いい子ちゃん」を演じていただけの話だったのだ。しかも、他人を思い通りに動かしたいだなんて考えている暴君そのものだったのだ。
 それからの僕は大いにこれを恥じ、暴君たる自己をコントロールする方向に動いた。そのカギになるのが、「仕方ない」という言葉である。

 自分の期待を相手が満たしてくれなかったとしても「仕方ない」し、相手が求めている反応を自分が返せなくても「仕方ない」のである。だって、それぞれ抱えている育った環境も、問題意識も、思考回路も、種々の感官の感覚も違うのだから、「仕方ない」。そうやって前向きに諦めていく感覚を身につけたのだ。「自分に共感してほしい」という人には申し訳ないが、僕はちょっと「不良」になることにした。世間の「共感できて、寄り添える人が素晴らしい」という要請にたいして、ちょっと「不良」になったのだ。
 僕は他人の反応に期待しない。だからといって「非行」に走るのではない。報われることを期待していれば、いずれ讐いることを考えるようになる。だから僕はちょっと「不良ワル」になって、「すみませんがあなたの期待には応えられませんし、応えてほしいとも思っていません」と相互不可侵条約を結ばせていただくのだ。
 そうすると行動がまるで変容する。報われるかどうか分からなくてもやるようになる。自分がただよいと思ったからやるのだ。それを相手がどう受け止めるかは、相手の問題である。もし見当はずれ(そもそも見当なんてつけないのだが)でも「仕方ない」と割り切ってしまう。ちょっと傷ついても、それをそのまま飲み込んで生きる。決してなにか別の「よいこと」で埋め合わせて傷を癒そうだなんて考えない。出来事の一回性を重んじるようになった。
 アドラーは行動の指針として「他者貢献」を求めているのだが、それさえ見失わなければ、どう生きたってかまわないといっている。「他者貢献」を見失った行為は「非行」である。林真理子の言葉を借りれば、それは「甘ったれている」。そうではなく、健全なナルシシズムを育み、他人の人生に振り回されないために、「いい子ちゃん」こそ自分の心にちょいと「不良」を飼ってみるのだ。自分のために世に逆らってみることには、最初は特に大きなエネルギーが必要かもしれないが、驚くほどに視界が開けてくる。また人生の味わいも増してくるというものだ。開高健は『小説家のメニュー』にて、味わい深い水とはなにかを語っていた。僕には、これが人間の味わいにも適用されるものと信じてやまない。

早い話が、もっとも純粋な水—蒸留水、H2Oなど甘くもなければすっぱくもなく、照りもなければ艶もない。単に純粋というだけではダメなのであって、なにものか異物がプラスされて初めて、味という不思議が生まれてくるのである。

開高健『小説家のメニュー』p.156

今回の一汁一菜

2026/01/07分

白菜・しめじ・油揚げの味噌汁
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり

今年初のまともな一汁一菜の食事であった。一日間違えて6日に粥を食ったので、7日は一汁一菜とした。

参考文献

・開高健『小説家のメニュー』TBSブリタニカ(現在は中公文庫にて公刊)
・岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』ダイヤモンド社
・『アンソロジー カレーライス!!』PARCO出版

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