一貫性をもった人というのはどうやら好意的にみられるようで、それがたとえ物語の悪役であっても、「美学を通している」だとか、「筋を通している」のであれば、人の目には好ましく映るようである。というのも、主人公の人間性は最初から完成されておらず、一貫性や軸というものが次第に形成されていくのに対し、悪役は物語のはじめから首尾一貫していることが多いので、それが人気を呼ぶのであろう。
フィクション・ノンフィクション問わず、一貫性のあるキャラクターが人気を集めるのは、人間が一貫性を好む生き物であるから、というのは納得いただけるだろう。自分なりの判断軸を立ててその通りに生きる人をカッコいいと称揚する一方で、軸が定まらず、言うことがコロコロ変わる一貫性のない人は非難の的になる。そして、そんな他人への評価は、しばしば自身の一貫性のなさを棚に上げて行われる。しかし、人は自分自身に対しても、一貫性を持ちたいと思っている生き物である。一度言っ(てしまっ)たこと、やっ(てしまっ)たことは守りたいと思っている。このメカニズムについて、心理学者のチャルディーニは次のように説明する。
行動を含むコミットメントをしてしまうと、自己イメージに一貫性を保たせようとする圧力が、自分の内側からも外側からもかかります。自分の内側からは、自己イメージを行動に合わせようとする圧力がかかります。そして外からは、もっと密かな圧力——他者が自分に対して抱いているイメージに、自己イメージを合わせようとする力——が加わるのです。
ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』[第三版]p.128〜129
一度言ったこと、やったことが、それまでの自分の言動、行動と比してズレたものでないか、あるいはこれからの行動を規定するものになっていないかをチェックする機構に加え、他人がイメージする自分と自分の言動、行動がズレていないかをチェックする機構が密かに起動していて、それが人の行動に一貫性をもたらしているという。人は他人に対して厳しく一貫性をチェックする一方で、自分自身の一貫性にも(一応は)目を光らせているのである。
このときもちだされるのが「他者が自分に対して抱いているイメージに、自己イメージを合わせようとする力」である。これぞまさに「他人軸」ともいえるものであり、これに振り回されている人は『嫌われる勇気』でいうならば「他人の人生を生きている」状態といえる。日本という国は一神教圏のように、いつでも私のことを神様が見ている、という世界観ではないがゆえに、自分を律する際にもちだされるのは神の視線ではなく、常に他人の視線であるといえよう。
問題は、「他者が自分に対して抱いているイメージ」というのは、自分自身の想像の産物、つまり「自分軸」にすぎないのではないか、ということである。実際に「キミはこういう人間だよね」とか「いっつもお前はこうなんだから」という言葉を耳にすることで内面化されていくところもあるだろうが、本当は「他者にこう思われたい」と思っているだけに過ぎない自己イメージを、「他者が自分に対して抱いている自己イメージ」にすり替えている部分もあるのではないか、ということである。要するに、前者は「俺はカッコつけたい」で、後者は「俺にカッコつけるよう周りが要請・期待している(に違いない)」ということである。
こうなると厄介なことになる。一貫性といっても、人は日々変化するし、社会も変化する。本当に一貫しているのは「何もかもが一定でなく、変化し続けることだ」ともいえるこの世界において、自己イメージは変容を迫られることが往々にしてある。そんな自己イメージの変容を迫られたときに問題が起こるのだ。
単に自分が「他者にこう思われたい」と抱いているイメージに対しては、だんだんと今の自分にそぐわなくなってきた場合、そのイメージを修正して、新たに「こう思われたい」イメージを打ち立てればいいから、こちらの変容は容易である。自分自身が変われば変わる。ただそれだけのことなのである。
しかし、それを「他者が自分に対してこう思っている(に違いない)自己イメージ」にすり替えてしまっていた場合、本人にとっては自分の問題ではなくなるから、変容が難しくなる。本当は自分がそうしたいだけにも関わらず、「周りがこう思っているから、自分はそれに合わせなければいけない」と考えているから、変容するどころか、より固執するようになる。さらには「本当はああしたいのに、周りがこう思っているから」と変われない自分の責任を他者に押し付けるのである。そして、他者としては、してもいない期待に勝手に応えようとして消耗するさまを見せられて困惑するだけなのである。
他者目線をつかっての一貫性を保とうとすると、このようなすり替え問題が往々にして起こる。なぜここまで書くかといえば、それは僕がかつて、このようなすり替えた自己イメージで自分を律しようとしていた人間であり、またそのような自律はただの自縄自縛にすぎず、なにも生まないことを知っているからである。そして、「他者がこう思っているに違いない」と考えるということは、自分の思い通りに世界を動かしたいと思っているワガママな子供そのものであることに気づいたからである。
世界は(残念ながら)中身のわからない他者に満ち溢れている。思い通りにことは進まない。それをありありと受け取って「仕方ない」と思えたとき、自意識過剰は霧消したのであった。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/16分
ほうれん草・ミニトマト・ネギ・落とし玉子の味噌汁
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり
ミニトマトが安く手に入ったので、秋以来のトマト味噌汁。
参考文献
・ロバート・B・チャルディーニ(著) 社会行動研究会(訳)『影響力の武器』[第三版] 誠信書房





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