日本は「合わせる」のが得意技であろう。とんかつとカレーを合わせたし、あんことパンも合わせてみたし、カミとホトケまでをも合わせてきた。漢字に至っては唐土からやってきた読み方と、日本の読み方(訓読み)を合わせて使っていても平気なのである。さらには、合わせて見立てるのも得意であっただろう。庭のオブジェクトの配置から、歌に潜ませた寓意など、実景ではなく、想像の世界に遊ぶこともさかんにやってきたはずだ。ミニチュア写真家の田中達也はその最前線を走っている(サムネイルはその田中達也の展覧会に行った時の写真である)。
今でも日本は「合わせる」のが得意だとおもう。でもそれは、内側に向けての話であって、外側から来たものを「合わせる」のは下手くそになってしまっている。
たとえば、飲食業界は世間をよく観察して、嗜好に「合った」新商品を次々と出してくるし、競走馬と美少女キャラクターを組み合わせたりするなど、「合体」させることにも長けている。だが、これらはもともと日本人がうるさい分野かつ、日本の内側にあったものだからうまく「合わせる」ことができているのである。一方で、外側からやってきたもの、たとえばスマホやWebサービス、「グローバルスタンダード」や「SDGs」といった、欧米からの潮流に対して日本向けに「合わせる」——「チューニング」といったほうがニュアンスが伝わるかもしれない——ことをしなくなっていて、そのまま受け入れてしまっていたりするのである。
田中優子と松岡正剛による対話をおさめた『日本問答』はこのような、内と外のアンバランスについて語り合うことから始まる。この中で田中と松岡は、日本の内と外の境界性において、「内」に重心が置かれていることに注目する。
松岡 インサイドとアウトサイドがきれいに対称的になっていないんでしょうね。しかもインサイドのほうにかなりアクセントがおかれてきた。
田中 (中略)そう考えると、日本でインサイドが強調された理由は、むしろ膨大で多様な外がつねに内に流れ込んでいたので、消化と再構成、つまり新しい秩序をつくるために梳りつづけていたからではないかと思います。いまは入ってきたもののスクリーニングが甘いから、その厳しさが理解できないかもしれません。でも、排除することよりスクリーニングと編集の手間をかけるほうが、文化と技術の質は上がるはずです。田中優子・松岡正剛『日本問答』p.4〜5
日本は島国として大陸と距離がありながらも、常に外と関わり、いろいろなものを吸収してきた。漢字はいわずもがな、鉄や鉄砲、仏教、イネとその技術も外からやってきた。また、いま、我々が「和食」と呼ぶ料理に用いられている野菜は、ほとんど外来のもので占められている。でも、日本の調味料と、「和食」の技法をもってそれらを調理すれば、トマトだって和食になる。
そう、外から入ってきたものを、日本の内側に向かって「合わせて」きたのがわれわれの歴史なのだ。とくに食とエンターテインメントに関しては、今でもめまぐるしく変化がおこっている。カレー、ラーメンを筆頭に、日本で形を変えた料理やエンターテインメントは数え切れないほど挙げられるだろう。世界の神々や中国の猛将たちまでも美少女キャラクターに変えてしまう国など、どこを探してもなかったはずだ。ところが、ものの考え方、社会制度に関してはどうだろうか。外から持ち込まれたものをポンと置いただけになっていないか。投票率が低いのだって、当たり前としかいいようがない。自分たちの手で勝ち取った制度でもなんでもないのを、ただ受け入れているだけなのだから。日本に住んでいて、投票権があることを誇りにおもうことはかなり難しいのではないだろうか。大正デモクラシーも「歴史」になったのだ。
かつてあれほど隆盛を誇った日本のガラケーも、スマートフォンの上陸によってその地位を失い、いまや「平成レトロ」の対象である。そのスマートフォンを起点に流入する、海外ビッグテックの乱暴狼藉にはほとほと参っている。今や多くの発信者の生活基盤となっているYouTubeにおいては、Googleの(AIの)機嫌を損ねただけで一発ノックアウト。そのままBANになるのを免れたければ、「教育プログラム」を受けろというのである。立派な文化侵略と統制である。
一時期Yahoo! JAPANが「検索はヤフーで」とさかんにCMを打っていたが、海外ビッグテックを退けるにはパワーが足りていない。上に引用した田中優子の発言通り、今の日本は、入ってきたもののスクリーニングが甘く、あらゆるものを素通ししてしまった。その結果、世論はSNSで操作され、日々炎上ネタを探す人々がSNSを闊歩し、井戸端会議は全世界に筒抜けになってしまった。絶えず人々はスマホの画面を更新し、新たな投稿に混ぜ込まれた広告を見せられ続ける。ようやく法整備の重い腰を上げるようになったが後の祭りである。国家よりも企業が「法」となって世界を回していく。しかも、日本国内の企業ではなく、海外ビッグテックによってだ。
かつての日本はこんな体たらくではなかった。
田中 ……買えばいい、売れればいい、ものでも金でも手に入りさえすれば豊かだという考え方では、日本は編集能力を失い、技術も文化も育たなくなります。江戸時代は、外国から学ぶけれど買わないという姿勢をもったので、職人が急速に育ち、ものづくりの国になったわけですから。
田中優子・松岡正剛『日本問答』p.8(引用にあたって傍点は削除した)
学ぶけど、買わない。この姿勢は今の大マーケティング界を潜り抜けるなかで、有力な立ち回りとなるだろう。これは、美味しそうな新メニューだとおもったら食べに行かずに作ってみる、今夜のおかずの参考にするにとどめる、というようなことから始められる。
今や、世間の嗜好に合わせるどころか、サービス提供側が世間の嗜好を先回りし、あらかじめ規定するような形で、ムーブメントを作り出そうとしている。まるでファッション界の「トレンド」のようなものであるが、要するに「どうせみんな、これが好きなんでしょう?」という話だ。それをただ盲目的に受け取るのではなく、学ぶけど、買わない姿勢で対峙することで、あなたは自分のコントロールを取り戻すことができる。様々なマーケティング手法が、世間に合った商品を繰り出してくるのなら、それを退ける方法を身につけることも、また時流に合った立ち回りではないかとおもう。
さて、「どうせみんな、これが好きなんでしょう?」と世間に合わせるどころか、先回りしたお節介によって生まれる新商品たちだが、これが失敗を恐れる時代性や、タイパ、コスパ志向と噛み合ってしまい、「間違いない組み合わせ」を選びたいという嗜好を作り出した。こうなったらもう、似たようなものだけをひたすら再生産する世界になっていくだろう。なにも、カップ焼きそばのショートケーキ味を作ってこれを打ち破れという話ではない。あんな買い手不在のままに、いたずらに資源を無駄にするだけのくだらない企画は二度と現れないでほしいとおもっているが、どこを見渡しても同じような景色が広がるさまは、資本主義が蛇蝎の如く嫌っている共産主義の光景となんら変わりがないではないか。
最近、近所に新しい家が5軒並んで建ったが、みな同じ形をしていて、窓の形と玄関の入り方が少し違うだけの、コピー・アンド・ペーストされたような家だった。徹底したモジュール化によって、ただ効率的に家が建っていくさまを見て、僕は慄かざるをえなかった。なんの編集も行われずに、ただ右に合わせるだけ……これが日本の得意な「合わせる」だったのか?
むろん、同調圧力をかけて「右向け右」するのは日本の陋習といえるもので、軍隊式の教育が未だ教育現場に禍根を残しているから、これをそのままにしていいとおもってはいない。このことについては一言断っておく。
最近ようやく、しきりに海外目線だの、海外に出たがる人が出てくるのもわかるようになってきた。日本が日本の編集方法を失って、逼塞しているからだ。「日本」が面白くなくなっているのだ。結局海外に出ても画一化の波からは逃れられないだろうから、よほど海外が肌に合わない限り、意味のないことだとおもっている。ならばせめて日本にいながらも、面白がれるようなことを探していくしかない。さしあたっては、連歌のように、前の句に合わせながらも、次第に文脈を変化させるように連ねていく「付合」のような、そんな編集が面白いとおもっている。
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2026/02/12分
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ちくわのきゅうり詰め・平天
参考文献
・田中優子・松岡正剛『日本問答』岩波新書






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