優れた小説やエッセイに出くわすと、いったいどこからその言葉を取ってきたんだとおもえるような、ぴたりとハマる比喩や表現に舌を巻くものだが、優れた言語化能力を持つがゆえに、言葉に言い表せないけれども心には感じていたものたちが棄却されてしまっているのではないかともおもう。
優れたエッセイストはここのところを、うまく読者に想像の余地を残すような、膨らみのある言葉を選択して僕らの背中をぞわぞわさせてくれるのだが、正直なところ、「ホンマにそのとき、そう思ってたんか?」と訝しんでしまう。文章に起こす段になっての脚色というのは大いにあるのではないか。その一方で、やはり言葉にできず捨てられてしまった感情というのもたくさんあるのではないか。文章にして書けるんだけど、その過程で抜け落ちて描けなかったこと、頭には思い描けるんだけど、文章には書けなかったことが死屍累々、僕らのまわりに転がっている。
大喜利文化なのか、X(旧:Twitter)などの短めの文章でうまく言ったものを珍重する文化か知らないが、やたらと言語化能力が誉めそやされる時代になっている。たしかにうまい言い回しに出くわすと、「草」だの「神」だの「エモい」としか言えない自分の語彙の少なさが恨めしくなってくるかもしれないが、心に感じたこと全てにぴたりとハマる言葉があるとは限らないのだから、特段気に病むことはないとおもう。「魔女」に対する「魔男」がない(作品名などの固有名詞は除く)ように、すべての色に名前がついているわけではない(つけられるわけがない)ように。固定された色の名前ではなく、空の色が移り変わっていく「黄昏時」という表現をとっても、当の今、目の前で移り変わっている空の色を示せるわけではない。では動画に撮ってみようとしても、それは自分の目で見たものと何か違う。景色を共有したい誰かと一緒に見ても、多分見ている景色は違う。何事もロスなく伝えるということは不可能なのである。
自分の感じたことをできるだけ正確に、誤解なく、あるがままに伝えようと言葉を尽くせば尽くすほど、その言葉についてまわるイメージがそのことがらを縛りはじめる。本当に思っていたこととは少しズレたことでも、いったん言葉にしてしまえば、その通りだったかのようにおもえてしまったりもする。「あの店のコーヒーはピーチみたいな風味だったね」と言ってしまえば、それ以外に感じていたかもしれないベリーの風味やブラウンシュガー的なニュアンスなんかが、なかったことにならなくとも、奥に引っ込んで背景化してしまう。なんでも「〇〇みたいだったね」と喩えようとするのは、目の前にあるもののイメージを痩せさせかねないのでやめたほうがいい。「今年のクレヨンしんちゃんの映画は鬼太郎みたいだね」なんてことを言ってもつまらないだけである。
また、特定の強いイメージを喚起する言葉があらぬ方向への連想ゲームの口火を切ってしまったり、イメージが混線してうまく伝わらなかったりすることもある。「漬物」と言われてもほーんとしかおもわないが、「パンツ」と聞けばおや?となり、「セックス」ともなれば、もう受け取る側が勝手な連想ゲームを開始してしまう。それが「ズボン」をひっくるめて指す「パンツ」であっても、社会的な性である「ジェンダー」と対比され、身体的、生物学的な性を指す「セックス」のことであったとしても。いたって真面目な話の最中でも、強いイメージ喚起力を持つ言葉が登場すると、身構えたり、受け身の態勢を取らねばならなくなる。時々我慢できずに吹き出してしまうようなことだってあるだろうし、また、連想ゲームが暴走しはじめて、後の話が入ってこないということにもなりかねない。自分の思ったことの一切を伝えようとして言葉を尽くすことが、いいことばかりではないのだろう。書けば書くほど、言えば言うほど、ドツボにハマることだってあるし、どれだけ言葉を尽くしても、描ききれないものはある。
頭に思い描いても、書けないことといえば、やはり寝ているときの夢であろう。夢に見た内容を言葉にしようとしても、くんずほぐれつ、しどろもどろ、言葉を紡ごうとしてもうまく出てこない。言葉にしようとすればするほど、考えていたことが雲母のようにはらはら剥がれていく。「結局何が言いたかったんだっけ?」となるばかり。夢の内容がどれだけエキサイティングなものであっても、言葉にすればなんだかつまらないものになる。スケールが一気に小さくなったような気持ちになる。不条理、支離滅裂さが夢のウリなのだから、言葉にしたらつまらないに決まっているのだ。
その点、小説家はいかに物語を紡いでいるのだろう。エッセイストはその感受性をどのように言葉に転写しているのだろう。頭の中にあるものを言葉に取り出すのは容易ではない。出してみたらなんとなく違う、どっかが抜けている、もっといい言葉があるはずなのに見つからない……。山のように繰り返されるこの事象に、言葉を仕事にする人々は日々呻吟しているはずである。「こんなつもりではなかった」「本当はこう言いたかった」とあとからあとから出てきては止まらない。この点に関しては、出したらそのまま、その時の自分の作品なのだからと改稿しない人もいれば、積極的に手を入れる人もいるので個人差あり、といったところだろうか。だが問題はまだあって、言葉は発信者を離れた途端、受け取る側に全てが委ねられてしまう。発信者としては、契約書や利用規約なんかのように、細かい字でたくさんの注をひっつけてまわりたい気持ちもあるかもしれない。でも、哲学書でもない限りは、注ばかりつけられても興醒めである(哲学書はむしろ注が読みどころになっているケースもある)。
結局のところ、どこで折り合いをつけるのかという至極つまらない結論に逢着するのであるが、言葉を仕事にしている人は、言葉の力を信じながらも、常に疑い続けるという、矛盾を孕んだ態度、デュアルな態度、二項同体ともいえるスタンスで臨んでいるだろうなという妄想をここまで縷々垂れ流してみたのであった。
最後に、これはいいと思った表現をいくつか引用してみる。
美容師は鏡の中の僕の顔を、まるでセロリの筋をいっぱい集めてそのままどんぶりに入れた料理を見るような目つきで眺めながら、彼女の指示にいちいち相づちを打っていた。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』新潮社
どちらも奥歯の深いところにじわりと滲んで広がるうまみを思い描かせ、にわかにそわそわ、熱燗が恋しい。(引用者注:焙ったイカのこと。)
平松洋子『買えない味』筑摩書房
鮮やかな紫からごく薄い黄色へのグラデーションが目に麗しく、舌に優れて美味である。(引用者注:味噌汁に入ったナスのこと。)
久住昌之『これ喰ってシメ!』カンゼン
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/18分
カブ・ぶなしめじ・にんじん・油揚げの味噌汁
大根の梅甘酢漬け
わさび椎茸の佃煮
参考文献
・久住昌之『これ喰ってシメ!』カンゼン
・平松洋子『買えない味』ちくま文庫
・村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』新潮社








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