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0013 令和目線の『閃光のハサウェイ』 – スパイスフルライフ

0013 令和目線の『閃光のハサウェイ』

百汁百菜

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 前回は10年もの間積んでしまっていた小説版『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を劇場版第二作『キルケーの魔女』公開を機に繙いたことについて綴ったのだが、僕がこれを買った10年前にこれを読んでもまるで理解できなかったであろうから、これは10年間寝かせておいてよかったと思える。寝かせていた10年の間で、『閃光のハサウェイ』で示された富野由悠季の考え方がわかるようになっ(てしまっ)たからである。今回は令和目線の『閃光のハサウェイ』と題して、僕の考えを披瀝させていただくことにする。

※ネタバレ注意!
小説版『閃光のハサウェイ』および『ベルトーチカ・チルドレン』からの引用があるほか、劇場版『キルケーの魔女』のネタバレを含みます。

 まず、結論を先取りしておくが、『閃光のハサウェイ』は令和の今(2026年)でも物語内で示された問題意識は時代遅れにはなっておらず、現代でも通用するところは十分あるといえる。しかし、その問題意識をそのままそっくり受容することはできなくなっているだろう。それと関連する形で、令和に産み直されたハサウェイというキャラクターへの味付けと、その受容は変化しているといえる。「理想に燃えて閃光と散る」キャラクターから、「内向的な問題に苦しむ」キャラクターへと、根っこに抱える問題は同じでも出力が変化したうえで、現代で受容されている。この2点について語ったあと、劇場版のハサウェイが救われる可能性についても少し考えてみた。

バブル期に書かれた『閃光のハサウェイ』

 富野由悠季が小説版『閃光のハサウェイ』をものしたのは日本がバブル景気に沸いていた1989〜1990年のことである。日本中がまだまだいけるぞと好景気に沸く中で、富野は作品内で以下のような考えを披瀝する。

 ステイタスを維持するために、身を飾るものが欲しいのは、自身にステイタスを誇示するものがないからであろう。
 野心家であれば、百年後の地位と財産保全を考えて、投資を意識するという社会的動物であることは、ギギにも容易に分った。
 それこそ、伯爵の薫陶である。
 しかし、それが永遠のものであるという保証がないのが、現実の社会なのだ。

『閃光のハサウェイ(中)』p.180

すでにバブルが弾けることを見透かしていたかのような記述である。そして実際に、バブルは永遠のものではなくなり、日本はその後30年が「失われた時代」とさえ言われるようになった。
 僕が生まれたのは1995年だから、失われた時代しか生きていないことになる。生まれながらにして、国が良くなるなんて物語を見ることも、皆が好景気に浮き足立つような光景も見てこなかった僕としては、上の引用の後に続く、以下のような文章にひどく共感をおぼえてしまう。

 死ぬときに、人はなにをもっていけるのか?
 恐れることなく死んでいければそれでよい、という心境を得ることこそが、最大のものではないのだろうか?
 長く生きたいとするのは、人の業なのだ。やりのこしたことがある。やらなければならないことがあると欲するのが、それである。
 ひとりの人で、人類と世界にとって、死なせてはならない人物などはいない。
 人が動物でありながら、生と死の輪廻の埒外にあると欲望する心が、このことを忘れさせているということは、ギギは、伯爵から学んだ。

『閃光のハサウェイ(中)』p.180-181

 仏教や老荘思想のほか、ニーチェやハイデガーの語るニヒリズムの薫りもしてくるような考えであるが、僕はこれに同意する。『閃光のハサウェイ』作品中で最も深い共感を抱いたのが上のくだりである。
 死んだあとには何ももっていけないのにも関わらず、地球を傷つけてもなお止まらない、現世での欲求充足に向けて無限の推進力を持って突き進む人間への失望が見えてくるような文章だが、この文章に対して1995年生まれの僕が共感してしまっているのはなぜか。バブル期の社会における問題が、今でも保存されてしまっているからではないのか。

仕組みの深さを破壊したい

 原作小説では地の文として、劇場版第一作ではハサウェイの台詞として語られるのは「仕組みの深さを破壊」して改革をなしとげなければ、先の「シャアが起した反乱(『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』内でのできごと)も、あの時、死んでいった人たちの霊もなぐさめられない」(上巻p.130・括弧内筆者補足)ということである。
 人が作ったはずのシステムに人は飲み込まれ、肥大化し歯止めが効かなくなっている中で、官僚機構はそのシステムを保存し、社会的弱者を切り捨て、退けつつ、例外規定を設けて特権を貪る……宇宙世紀の地球圏を包む問題は2026年の地球にも当てはまってしまっている。
 そのシステムに対して、小説版ハサウェイは「仕組みの深さを破壊する」ためには、「組織の中枢を慄然とさせ」(上巻 p.127)なければならないと強気な考えを表明する一方、劇場版では、その「仕組みの深さ」を前に、「それを破壊する方法を教えてくれ」と弱気なさまが描かれている。ハサウェイのキャラクター造形が多少変わっているのがうかがい知れるが、その話題に関してはのちに触れることにして、「仕組みの深さ」へ話題を戻す。

 富野由悠季はしばしば、社会システムに対する態度をアニメーションを通して表明し、それを観た(かつての)若者たちへ行動を促すのだが、そのシステムに対する富野の態度は、『閃光のハサウェイ』以後の富野作品で変化がみられるのではないか。いってしまえば、作品中の「社会システム」を暴露してしまうのである。

 たとえば、『∀ガンダム』においては、主人公一行の前に「黒歴史(いまや一般的な名詞となったが、この言葉は『∀ガンダム』で生まれた)」が開陳されるほか、主人公ロランが駆る「ターンエーガンダム」は、文明を破壊し、まっさらにする力をもった「月光蝶」を扱える強大なシステムそのものであるのだ。
 また、『ガンダム Gのレコンギスタ(以後Gレコ)』においては、文字通り社会を貫くエネルギー・システムの仕組みを「自分の目で見る」ために、金星圏までの旅を敢行するのである。
 『∀ガンダム』においては、強大なシステムであってもその使い方を誤ることのなかった青年ロランの活躍を描いて人類にも希望があることを示したほか、『Gレコ』はシステムの全容を知った上で、世界各地を見て回る旅をせよと若者を誘うのである。システムそのものの破壊はできないが、それを知った上でどう世界に働きかけるか……それを『閃光のハサウェイ』以後、バブルが弾けた世界を生きるものたちへの向けた作品で富野は視聴者に問うているのである。

 そして、1995年生まれの僕が引き受ける物語としては、『∀ガンダム』および『Gレコ』であるべきはずなのであるが、どうしても「仕組みの深さ」の前に立ち尽くしてしまう。
 ネオリベラリズムの侵食によって世界を自己責任論が覆った。「社会のせいにするな」が合言葉であり、「配られたカードで勝負しろ」という言葉は、生まれ持った環境からの解呪はおろか、それをいっそう強化する呪いの言葉として、社会をより硬直させていく。それを目の当たりにしてしまった僕はどうしても、『閃光のハサウェイ』の物語に惹かれてしまうし、ついついシャアに、そしてハサウェイに肩入れしてしまうのである。あなたは、「こんな社会、一度ぶっ壊れてしまえばいい」と思ったことはないか。

コロナは月光蝶にならなかった

 そんな社会を2019年から新型コロナウイルスが覆った。感染症そのものも未曾有の被害を出したが、人々の活動にも制限がかけられ、経済は機能停止、不要不急の産業に対して厳しい目が向けられただけでなく、国家が持つ暴力性が白日の下にさらされたほか、人々の間で自警団的に勃発する暴力、情報の混迷が分断を生んだことで、感染症がもたらす二次被害の凄惨さを人々に知らしめた。
 感染症の脅威は確かに恐ろしい。しかし、この惨禍が去ったとき、もしかしたらこれで世界がリセットされるかもしれない。少なくとも、世界は少し変わるかもしれない……と希望をもった人もいるかと思われるが、現実はどうだ。店の前にアルコールスプレーが常設されるようになったことと、融通のきく会社ではテレワークが柔軟に行えるようになった……ぐらいで、多くの人が「これまでと同じ社会」を望んだから、世界の形は変わらなかった。人間はいつだって現状維持に動機付けられる。そういう動物なのだ。
 コロナ禍という大きな外圧がかかってもなお、これまでのシステムは保存されてしまったのだが、それはおろか、力による現状変更を実行する国家が再び現れ、力による伸長を是とし、それに邁進する国民国家ネーション・ステートの宿痾を人々に思い出させたのである。
 さらには、生成AIの出現で人々はシステムにより深く組み込まれるようになってしまった。それ以前のインターネット・サービスの段階からそうであり、とくにSNSは人々の注意・関心を惹いた上で、その時間を商品として企業に販売している。そして、生成AIにとっては利用者はただの学習元であり、これまた商品である。AI企業をはじめとするインターネット・サービスの企業によって僕らはシステムに深く組み込まれ、永遠にボタンを押し続ける実験動物のようになってしまったのだ。
 コロナという未曾有の惨禍によっても世界は変わらないどころか、むしろひどくなってしまった。僕らの手に、「月光蝶」はないのである。

令和最新版「ハサウェイ・ノア」

 コロナの惨劇を受けてもなお保存され、一層深いシステムに組み込まれてしまった僕らはもう、『∀ガンダム』や『Gレコ』で富野が示した、溌剌な若者の姿を追いかけることができなくなってしまっているのではないか。そこで令和に再び現れたのが、劇場版『閃光のハサウェイ』であり、「マフティー」である。

 シャアの反乱、および、「マフティー(組織)」の活動が学生運動をモデルにしているのは各所で語られている通りで、劇場版においても、そのモチーフは継続して用いられているというのは、声優インタビューでも明らかになっている。

『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』特集② 鮮明になるふたりの心情 小野賢章×上田麗奈対談(前編) | Febri
互いに影響し合うハサウェイとギギ ――まずは第1章のことを振り返りたいのですが、前作の世間や周囲からの反応をど

 しかし、学生運動はもはや歴史となってしまった。少なくとも、平成に生まれ、令和を生きる僕にとって、学生運動の時代を覆っていた空気を嗅ぎ取ることはできない。そして、その熱を実感として持っていないのである。学生運動の余燼が冷め切った令和において、「マフティー」の活動はテロリズムと受け取られざるを得ないのだ。
 そこで、小説版から劇場版へ、30年の時を経たハサウェイのキャラクター造形は味付けの変更を余儀なくされた。「肉欲を否定して高潔な理想へとその命を散らす」ハサウェイから、「罪と肉欲にもがき、絶えない自己否定の声に苦しむ」ハサウェイへと、基層的な部分は共通しつつも、味付けと出力が違ってきているのである。

 ハサウェイの基層的な部分としては、「シャアの反乱」で、多くの命が散っていったのを目の当たりにし、また自身も当事者として人を殺めた中で生き残ってしまったことに後ろめたさをもっており、シャアの背中を追って彼のことを学ぶなど、「シャアの反乱」に魂を置き去りにしてしまったまま、「マフティー」として「仕組みの深さ」を毀そうとしている……という部分である。
 ここでハサウェイが殺めた人物が、媒体によって異なっていることには注意されたい。小説版『閃光のハサウェイ』は小説『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン(以後ベルチル)』の続編であるから、ハサウェイが自らクェスを殺めているのに対し、劇場版『閃光のハサウェイ』は劇場版『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(以後逆シャア)』の続編であるから、クェスを殺めたチェーンに激昂し、そのチェーンを殺めている。
 この差と、時代の変化はハサウェイのキャラクターの味付けに変化をもたらした。それぞれ見ていこう。

 小説版のハサウェイは、確かにクェスを殺めたことを心の傷として抱えているものの、あくまで「シャアの反乱」の中で死んでいった人物の代表として、その死の苦しみと痛みを回想しているように見える。というのも、『ベルチル』劇中でハサウェイがクェスを撃墜したことは本人も「あ、当っちゃった……」(『ベルチル』p.356)とこぼすほどのことであり、予測できない咄嗟の行為であったことがうかがえる。また、その行為はアムロの危機を救ったのだから、一旦の感情の置き場、というのは作れる。劇場版のように、幻聴……なのか死したあとの本人の思念なのかはわからないが、クェスの声が聞こえてくるということはない。
 そして、小説版執筆当時では、まだ「歴史」でなかった学生運動の余燼から、あの頃の理想に突き進み、そして、散るというキャラクター造形は、バブル期の膨張を続ける人類の欲望へのカウンターとして有効であったはずである。「仕組みの深さを破壊」することに対して、「組織の中枢を慄然とさせ」(上巻 p.127)なければならないと強気である小説版のハサウェイの態度も、高潔な理想を抱えたキャラクターとしての考えであろう。
 また、ハサウェイが「マフティー」を演る態度として、小説版では、その肉体に、高潔な「マフティー」をインストールして動かしているものの、しばしば肉体がエラーを吐いてギギを肉欲してしまうので抵抗を続けているといった印象を受けた。本人としては「ハサウェイ」の部分を殺して必死に「マフティー」を演ろうとしているのに、若い肉体の部分が、ありていに言えば「ムラムラする」ことに対して、「ケリアとのことは、世俗的な行為の末端のことにすぎない」(中巻 p.170)と言い聞かせ、ギギのことを「潜伏する肉欲の触手が、欲望している」(同)にもかかわらず、切り捨て、振り切ろうとするのだ。

 一方で劇場版のハサウェイは怒りにまかせてチェーンを撃った。明確に殺意を向けてしまったのだ。アムロの恋人であったし、またラー・カイラム内で度々世話を焼いてくれた人物をその手にかけてしまったのだ。クェスに対してはどこまでも何もできなかった無力感に苛まれ、チェーンを手にかけた罪は戦後の混乱で有耶無耶にされ、決して許されてはならない罪を自ら抱えこんだ人物として描写されている。
 罪を抱えた「ハサウェイ」を「マフティー」で必死に上塗りすることでギリギリ立っていられる、というような印象で、絶えることのない自己否定は、アムロ・レイの声に仮託されて己に降りかかるのである。『キルケーの魔女』終盤におけるアムロの形をとったもう一人の自分との応酬のなかで、「(ハサウェイ・ノアという)その名で呼ぶな!」という台詞が出てくるのはその象徴である。「シャアの反乱」での経験から、幸せになってはいけない、己の欲が満たされてはいけないという強迫観念と深い罪業意識に苛まれている青年として描かれている。また、「仕組みの深さを破壊」する方法について、劇場版のハサウェイは「それを教えてくれ」とどこか弱気なのである。「マフティー」活動に対し、義憤を燃やして「それでもやる」というよりは、懐疑がハサウェイを覆ってしまっているように見える。正義の価値が消滅した時代らしい味付けである。

*****

 以上、小説版と劇場版のハサウェイのキャラクター造形について私見を述べてきた。
 小説版ハサウェイは、まだ理想が燃えていた時代の味付けが施されているように思われる。「マフティーの名前を背負うようになってからは、ハサウェイは、謹厳実直であることをめざしたし、内向する部分では、さらに精神的な高邁さをもとめているところがあった」(中巻 p.16)というように、肉欲を退け、高潔な理想を掲げて闘うことに説得力のあった時代のキャラクターであった。
 しかし、現代ではそんな理想は悉く潰え、冷笑主義が跋扈して、もはや「何かに熱くなる」ことがバカバカしいと思えるような時代である。そんな時代の中で、劇場版ハサウェイの味付けは、己の欲が満たされてはいけないという強迫観念と深い罪業意識に絡め取られて転げ回る、ひどく内向的な問題へと変化した。もう社会の問題を語るよりも個人の問題を語るほかなくなってしまったのであろう。しかし、これは悪いことばかりではない。実際、劇場版ハサウェイの問題は、現代に生きる各人それぞれにとっての問題であると受容されているのだ。みんなが精神を病んでしまっている。『∀ガンダム』や『Gレコ』で示された若者の可能性よりも、卑近な問題として劇場版『閃光のハサウェイ』は捉えられている……そんな気がしてしまうのだ。

劇場版ハサウェイを救うもの

 さて、小説版と比べて、かなり描写が変更されたのが、『キルケーの魔女』ラスト、ハサウェイがギギを受け止めるシーンである。小説版では「また会えて嬉しい」なんて言いながらも、肉欲を否定して抱きついたままのギギを引きはがそうと理屈をこねるのだが、劇場版ではギギの接吻を受け止めたばかりか、背中に手を回して受容する姿勢を見せたのである。
 先にも述べた通り、劇場版ハサウェイは己の欲が満たされてはいけないという強迫観念と深い罪業意識に絡め取られているのだが、もしかしたら、それが救われるかもしれない可能性が見えた。その理解の助けとなるのは、親鸞の考えであろう。

 親鸞は浄土真宗の宗祖とされ、「他力本願」や「悪人正機」、また晩年には「自然法爾」をとなえたことで知られている。そして、よく誤解される。「他力本願」は決して「他人任せで自分は何もしない」というわけではないし、「悪人正機」は「悪人だからこそ救われる」といってなんでもやりたい放題していいわけではない。
 「他力本願」とは、絶対的な他者(阿弥陀仏)の願いによって救いとられることを信じる態度であり、自分自身の力で悟りを開こうとする「自力」を否定するものである。積極的に自らを阿弥陀仏へと投げ出すものであって、念仏さえも、自分の意思でとなえるのではなく、「如来よりたまはりたり信心」としてあらわれるのである。
 「悪人正機」も誤解が絶えないが、ここでいう「悪人」とは、自らを「煩悩具足の凡夫」、つまり「欲と罪にまみれた取るに足らない人間」であることを自覚した人のことをいう。一方、「善人」とは「善行をおこない、救われようとする」人であるといい、それは阿弥陀仏の本願を信じていないからだ、と自力救済を咎めるのである。しかし、親鸞はいう。

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

『歎異抄』第三章

 ここで親鸞は「善人でさえ阿弥陀仏は見捨てずに往生できるのだから、悪人ならなおさらだ」というのである。自分を信じない善人でさえ阿弥陀仏は救ってくれるのだから、自らを悪人であると自覚した人間は間違いなく阿弥陀仏の本願によって救われるのだと、その信心を表明するのである。
 また親鸞は「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し……」とこの世、この肉体にあって尽きることのない肉欲、愛欲に対する痛みを表明するのである。これを単純に読み解けば、そんな肉欲、愛欲を捨てて、素晴らしい人間になりましょうなどという理解になってしまうが、親鸞の思想はそんな皮層的な宗教家のお説教に回収されるようなものではない。

 親鸞は妻帯肉食した異例の僧侶であることが知られている。タブー破りもいいところである。しかし、そのどうしたって消えない肉欲に対する「罪業意識」と、どこまでも向き合った人物でもあった。そして、それは「罪を持ったまま悟る」領域へと昇華されていく。劇場版のハサウェイが救われるとしたら、そこしかない。
 ハサウェイは、「マフティー」を演る「善人」のあり方を捨て、その身に抱えた罪と湧き出る肉欲を丸ごと抱えて自分を肯定する(=「悪人」であることを認める)ことで救いの道が開かれる。ただその肯定は単に「これでいいのだ」という開き直りの肯定ではない。絶えず緊張感を持って、罪と欲に「然り」と言い続けなければならない、これはこれで苦しい人生である。己の汚い部分を自己否定することなく、一生直視しなければならないからである。
 だがあの世界に阿弥陀仏はいない。となれば、誰がハサウェイを救うのか。やはりギギがその手を差し伸べるのか。それとも、ハサウェイ自身が神……というか仏となるのだろうか。

 『キルケーの魔女』ラストでハサウェイがギギを受け入れたかのように見える描写は、肉欲を抱える自身への肯定につながるのか。これを期待して第三部を鑑賞したいと思う。いつになるのかはわからないが……
 その運命のカギを握るのは、猫の四春(フォーチュン)ではないかと睨んでいる。四春がクスィーに逃げ込んで、船からいなくなった途端にその船(ヴァリアント)が沈んだというのは示唆的である。その名の通り、運命のツキが誰に回ってくるのかは、四春の動きにかかっているのだ。

参考文献

・島田裕巳『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 仏教宗派の謎』幻冬舎新書
・釈徹宗『親鸞の思想構造 比較宗教の立場から』法藏館
・高森顕徹『歎異抄をひらく』 1万年堂出版
・富野由悠季『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』KADOKAWA
・富野由悠季『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(上)(中)(下) KADOKAWA

今回の一汁一菜

2025/12/23分

キャベツ・にんじんの炒め味噌汁
「うどんスープ」で作るだし巻き

車で10分ぐらいのところにある個人経営の讃岐うどん屋に通うようになってから、すっかり家ではうどんを食べなくなり、ヒガシマルの「うどんスープ」が余って仕方ない。ので、うどん以外にも積極的に使っていこうと思ったのだ。
鍋で少し薄めに溶かしたスープの一部を卵にも混ぜて水溶き片栗粉でとめ、だし巻きを作ったのち、残りのスープをかけていただく。某焼き鳥チェーンで昔食べた雰囲気の再現を試みた。
そういえば、その某焼き鳥チェーンはすっかりセルフうどんのほうが本業になってしまったな……

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