0003 卵黄の濫用

百汁百菜

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SNSなんかで流れてきた料理の写真や動画の中で、卵黄やチーズなんかが、のびる、たれる、したたるさまを見ると、口中によだれがあふれてきて、食いたいなぁ、腹減ったなぁなんて思うものだが、そういった反応を人々に喚起する写真、動画を指して「卵黄(ヨーク)ポルノ」というらしい(『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』チャールズ・スペンス(著) 長谷川圭(訳) 角川書店』)。「動きのあるタンパク質」はポルノのように強力な刺激としてあらわれ、人はそれを追跡、集中してしまう。耳目を集めて金に換えるアテンション・エコノミーでは頼もしい武器であろう。
 確かによく見る光景だなぁと思っていたが、まさか「卵黄ポルノ」なんて名前がついていたとは。流れの早いタイムラインの中で自分の投稿を見てもらおうと思うなら、卵黄やチーズを見せつけて目に留まるようにするのは合理的だが、投稿者の思惑通りにことが進んでいるようであまり気に食わない。でも、人間の身体を作り、生命維持に直結する高カロリー、タンパク質、脂質そのものだから、人間が反応してしまうのも仕方のないことである。理性で抑えようとも、本能が求めるのだから止められないのだ。

こういう、卵黄を割った瞬間とか、中身が垂れる瞬間のことを「卵黄ポルノ」というらしい

 その波は一汁一菜にも流れ込んでいるように見受けられる。まずAmazonで売られている一汁一菜のレシピ本で一番上に出てくるものの表紙は、味噌汁に落とし卵を割って卵黄が垂れている様子が写し出されている(売るためならば仕方ないことである。僕は笠原さんのことは好きです。念のため)。他にも、Xで見かけた一汁一菜の様子を投稿するアカウントがご飯の上に納豆と卵黄を乗せたものや、半熟ゆで卵などを中心とした写真を幾度も投稿するなど、アテンション・エコノミーのまさに目玉として卵黄が活躍するさまが見て取れる。
 一汁一菜を写したものは映えるというよりはむしろ落ち着きを喚起するものになりがちで、ご飯、味噌汁、おかずの鼎立が安定感をもたらすほか、(普段はジャンクなものを食べている反動として)たまにはこんなご飯がいいだとか、自分を労っている優しいご飯だとか、そういう安心をもたらす効果のほうが強く、そういった副交感神経に訴えるような投稿では刺激として弱く、タイムラインの波にさらわれてデータの藻屑となってしまうだろう。そこで卵黄である。一汁一菜を謳いながらも、奢侈への欲望が卵黄の形をして姿を現しているのだ。

 日本の食は目で食べるといって盛り付けを大事にするが、それは別に日常=「ケ」の料理に持ち込まなくてもいいのでは?と思う。バズ料理家が台頭する前から、「家でも店の味」志向はあったと思うが、コロナ禍がそれを加速させたのは間違いない。それが結局家庭料理のレベルをさらに一段引き上げはしたものの、「自分も(毎日)ああいうものを食べなくちゃ」としんどくなって、自分(と家族)が喜ぶためのものから、作り手が苦しむものになっていく……コロナ禍以前でもあったその傾向を土井善晴は厭って「一汁一菜」を提唱していたのであった。
 家庭料理を初期化したはずの一汁一菜なのに、人はそれに手を入れてより良いものを目指そうとし、手の込んだものがいいと思い込む宿痾から逃れられず、手のかかった一汁一菜に傾いてはいないか。先に言及したXで一汁一菜の様子を投稿するアカウントの人も、僕からすれば、頑張りすぎである。まぁ、一汁一菜で自分(と家族)を大切にした料理をしている自分に酔っている様子もあるのだが、それは別にいいと思う。ボードレールも時間に酷使される奴隷になりたくなくば、とにかく「酔え」と言っているのだから。なにかに酔っていないとこの世の中生きていられない。かくいう僕も酔っていないと生きていられないのだから……

 僕はこの(自分勝手な)連載を始めるにあたって、これまで撮ってこなかった一汁一菜の写真を撮るようになったが、毎日撮影ブースを用意して撮るなんて面倒だから、スマホでそのまま撮ることにした。これまでこのブログに出している料理の完成品の撮影はミラーレス一眼を使って、僕なりにこだわるようにはしていたが、それだともう続かないだろうと思ってやめたのだ。
 スマホで撮ることにしたはいいが、あんまりいい写真じゃないなと思って、写真をベースにイラストを描いてみようと思ったりもしたが、それぐらいなら撮影ブースを立ててミラーレスで撮るほうがましだ。AIにいい感じに整えてもらうかなんて思って一度試したが、まったくダメだ。緑のもの(例えば大根菜)を勝手にネギに補正したのを見て諦めた。「それ自体が何か」を了解しているのではなく、似ているものをビッグデータから引っ張り出して「それっぽい何かを推論」しているだけである。といったら人間も同じようなものだが、概念を掴むのがどうしても弱い気がする。追加で指示してもちんぷんかんぷんである。そういうわけで、とりあえず続けることのほうが大事だと思ってこの連載では写真にこだわらないようにした。とか言って、50回ぐらい続けて、やっぱりちゃんと撮るわなんて言い出すかもしれない。それは人間のことだからわからない。

今回の一汁一菜

2025/12/04分
小松菜・人参・油揚げの味噌汁
明太子・ゆず大根・椎茸のわさび佃煮

この組み合わせで味噌汁を作ると、noteに一汁一菜のことを書いたことを思い出して、ちょっと懐かしくもなったりする。
人参は千切りにして冷凍しているものをストックしてある。
この頃はまだ畑から冬野菜をあんまり採ってきていないので、おかずは買ってきたものばかりだが、今後これは手作りのものに置き換わっていく。

参考文献

・チャールズ・スペンス(著) 長谷川圭(訳)『「おいしさ」の錯覚 最新科学でわかった、美味の真実』角川書店
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社(新潮文庫版もある)
・ボードレール(著) 三好達治(訳)『巴里の憂鬱』新潮文庫

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