0004 図書館に挟まれて

百汁百菜

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 何かに追い立てられないと中々ことを始めない僕にとっては、図書館の返却期限というのはありがたいものだと感じている。ちょうど2つの市の境目に住んでいるおかげで双方の市の図書館に近く、またどちらからも本を借りられるから読みたい本が尽きなくて嬉しい悲鳴をあげている。そうやって2つの図書館からの返却期限に追い立てられながら日々本を読んでいるのだが、自分で買った本にまで手が回らずに、積読がホコリを被り始めているのが唯一といっていい悩みである。

 積読に関しては肯定、否定さまざまあるが、やっぱり僕は「これから読める可能性」を保持しておくことに安心感なり高揚感を覚えるので積読は肯定派である。まだやることがあるんだ、と思えることが生きる理由にもなる。とはいえ、一生かかっても読みきれないほどのものを抱えるのもどうかと思って、買うのは「これだ!」と思ったものだけにして、図書館から借りて読めそうなものはそちらで読んでいる。

 図書館に行くと一生かかっても読みきれない本が僕を待ち受け、迷わせる。買わなくてもこれらを読んでいい、というのは書店に行くのとはまた違う高揚感をもたらす。それでも、たいてい向かう棚は同じところで、哲学、宗教、文学、エッセイ……お決まりの棚。
 せっかく読み放題なのだからもっと違う棚にチャレンジしてもいいのに、なかなか行けないでいる。知は開かれているというのに、僕の方が受け止めきれていない。そう思って最近は、これまでほとんど読んでこなかった小説をちびちび借り始めたりもしている。別に小説が嫌いというわけではないのだが、他に読みたい本(特に哲学、宗教、人文書)が多くて首が回っていなかったのだ。
 手始めに村上春樹から手に取ったが、最初に読んだのが『ノルウェイの森』だったせいで、他の村上作品のファンタジー展開になかなか入り込めなくて困っている。『ノルウェイの森』が村上本人曰く「徹底したリアリズムの文体で書」いたものだったから、それを入り口にしてしまった僕は、『ノルウェイの森』以後に読んだ村上作品でファンタジー展開が始まる度に当惑してしまう。たとえば『ねじまき鳥クロニクル』は読了したものの、「井戸」を介したファンタジーと現実の往来には振り回されっぱなしのまま返却期限を迎えてしまったので、いつか再読したいと思っている。

 出版関係の皆様がたには申し訳ないと思うが、やっぱり「買うまでもない本」というのがあって、それにアタックできる図書館はとてもありがたい存在である。5〜6年前ぐらい(24歳頃)の僕は買った本に固執してしまって、極めて狭い見識と語彙しか持たない人間になってしまっていた。そういった自分をときほぐしてくれたのはやはり図書館である。硬軟織り交ぜた読書が、今の僕を作り、またこれからも陶冶していってくれるだろう。もちろん「買うまでもない」と思っていた本が、手に取ってみたら面白くて書店で買ったということもあるから、出版関係の皆様がたには、ご寛恕いただきたい。
 たまに「なんやこの本!」とまえがきの段階で辟易し一夜で返すこともあるが、それが許されるのは図書館の、ひいては公共の受け皿のおかげであり、「それを選んだのは自己責任」と突っぱねられることのない空間としてこれからも開かれていてほしいものである。
 だから、図書館の存続危機や、「経営感覚」の導入でビジネス化しようとする動きには憂いを抱いている。いち図書館利用者として僕に何ができるかはわからない。ただ利用実績を積んでいく、それだけでもいいというのならこれからも喜んで利用させていただくのだが。
 せめてこのAI氾濫の時代に、本だって確かなことを書いているとは限らないが、自分の眼で読んで、確かめて、咀嚼する力を本は養ってくれるから、その大事さを訴えていくことにする。

今回の一汁一菜

2025/12/05分
根菜と鶏手羽元のハンズオフカレー(昼の余りもの)
父が作って置いていった唐揚げ

昼食用に作ったハンズオフカレーの余りを夜に食べた。鍋に材料を重ねて煮るだけで作るハンズオフカレーは工程上、スープのようにサラサラに仕上がることが多いので、今夜は「汁」カウントした。
あとは父が作って置いていった唐揚げ。父は自他共に認めるところの唐揚げの名人である(イベントで販売もしたことがある)。ただ、凝りすぎて唐揚げそのものを売っていては商売にならないだろうと思っている。

参考文献

・村上春樹『村上春樹全作品 1979〜1989 <6> ノルウェイの森』講談社

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