0024 軸は太くて中が空のほうがいい

百汁百菜

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 世間がまだ大きな物語に包まれていて「これさえやっておけばみんな幸せ」だと思えていた時代、企業も終身雇用が基本で、人生が保障されていたような時代では、人々は自分の中に軸を立てなくても、世間に聳え立つ大きな物語の軸にその身を預けていればよかったし、世間が規定し、期待する人間像に合わせて自分を律していればよかったのだが、今では大きな物語は解体されてしまった。みんながみんな、自分の中に軸を立てないといけなくなってしまった。そんななかで、僕は「太いけれど中身が空の軸」を立てることを提案してみたいのだが、それを示す前に、すこし遠回りをさせてもらうことにする。

 大きな物語の軸がないからといって、自分の中に軸を立てないといけなくなったとき、みんながみんな、好きに軸を立てることなんてできるのだろうか。立てたら立てたでとやはり対立が起こってきて、軸同士のチャンバラがSNSで毎日のように観測されている現代に辟易し、「軸なんて持たないでおこう」と考える人が出てきても不思議ではない(というか、もう出てきているだろう)。「思想を持つのはダサい」という風潮である。
 このような状況に対しては、オルテガ・イ・ガセットの言葉が正鵠を射ているとおもうので引用する。

現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』p.74 引用にあたって傍点は削除した。

 なんの思想も持たない人が、それを持っていないことを認め(そして正当化し)、その持っていない権利を大胆に主張しているという、今の状況にあてはまる記述ではないかとおもう。
 「思想を持つのはダサい」という風潮は、自らのうちに軸を持たないことへのコンプレックスから生まれるのか、はたまた、軸を持って主張を続ける人が他人のプライベートゾーンやコンフォートゾーンを侵しているように見えるから(もしくは自分が侵されているように感じられたか)なのかはわからないが、個人主義が叫ばれているわりには、根強く社会性動物の本能が保存されているようにおもえる。サバンナ時代の脳のまんまに現代社会に連れてこられてしまっているのだから、当然といえば当然である。

 人の心の中に軸を打つ役割はかつて宗教が担っていたはずであり、一神教の国々ではいまでも思想の軸が通っている(形骸化しているところもある)のだが、日本は神道と仏教、それぞれの軸があり、またそれを自在に編集もしてきたから、柔軟性をもつ一方で強度に欠ける。それでは列強に伍することはできないと、明治からは国家神道を立てていくものの、敗戦によってそれも崩れてしまった。高度経済成長→バブル経済の流れは宗教不在を補ってあまりある物語を提供してくれただろうが、今ではそれも泡沫の夢。
 ただ、成長の残滓は残っていて、食べるものにも、綺麗な水にも事欠くことは少ないし、教育の水準も平均的に見れば非常に高い。最新技術にも気軽にアクセスすることができる環境にある。そんな中で、我々の人生はどうなるか、オルテガ・イ・ガセットは次のように指摘する。

私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である。
(中略)
あらゆる才能を持ち合わせているが、ただそれらを使う才能だけは持ち合わせていないということである。

『大衆の反逆』p.111

 知らないことはAIに聞き、欲しいものはポチッと押すだけで配送。食べたいものは街にいくらでもあるし、配送サービスを介して持ってきてもらうこともできる。ありとあらゆるものに容易にアクセスできることは、もはや「支配している」といってもいい。しかし、おのれ自身を支配しているものはなにか?
 企業はあらゆる手練手管を用いてあなたの行動を誘導しようとし、広告の反復であなたに価値観を刷り込もうとしてくる。やれ脱毛しろ、転職しろ、子供は塾に行かせろ、タイパ重視しろ、スキマ時間はバイトしろ……「働いて笑おう」なんてメッセージほどバカげているものはないとおもう。「働かせて笑っている」のはいったい誰だろうか。

 残念ながら、SNSは人々のつながりを広げてより幸福な出会いをもたらす方向にではなく、いかに滞留時間を長くし、広告を見せつけ、インプレッション数を金に換えるのかという方向に進んでしまった。ヨハン・ノルベリは「データこそ新しい石油」(『資本主義が人類最高の発明である』p.197)と言ったが、まさに我々はテック会社に石油を供給する存在になってしまったのだ。AIに至っては、我々をより人間らしい活動に専念させてくれるような存在になっただろうか?むしろ絵や文章、音楽などの文化活動から真っ先に破壊しにきたではないか。まったく、人間はあらゆる才能を持ち合わせながらも、使う才能には恵まれなかったようである。

 こうした状況に踊らされたくなければ、おのれの中に軸を立てるしかない。だが、かつてのように安定した地盤があるわけではない。軸の立て方から変えていかないといけない。そこで僕は、太いけれど、中身は空の軸を立てる、というのを提案したいのだ。
 太くて中身が空の軸はその自由度が売りである。細く、中身がみっちみちに詰まった無垢の軸では人の行動は大いに制限されてしまう。「しなければならない」が支配する軸である。しかし、太くて中身が空であれば、その中に「あそび」が生まれる。緩めの型を用意して、そこを守りながら、その中で遊ぶ。別にときには「破」してもよい。軸には穴が空いているのだから、そこから出ていけばいい。でも、戻りたくなったら、戻ってこればいい。そんな安全基地、帰る家のような軸である。
 それこそ僕にとっての一汁一菜である。一汁一菜はご飯と味噌汁と、なにかおかず(たいてい漬物とか佃煮とか)という食事の型だが、それはただの基本型であって、主食がパンになってもパスタになっても、ときには餃子になってもいいだろう。そして汁。ご飯とおかずだけでもいい、という声はあるだろうが、やっぱり汁物がないと食事が締まらない。食事中、ご飯とおかずの往復だけではなんとも忙しないではないか。汁物が割って入ることで、一口一口のけじめがつく。そして、汁を飲み干すと、ああこれで食事も終わり、という気持ちになり、ハリが出る。
 型なのにも関わらず、「しなければならない」ものがその中にはない、つまり中空構造をもっているのが一汁一菜である。型に縛られているのは、やってる本人よりも、周りのほうであることが多い。周りからみれば、中に遊びがあるなんて思いもしないことだからである。おかずが多かったり、ご飯じゃなくてカレーとかシチューだったりして、ちょっとでも逸脱しているように見えると周りのほうがうるさいというのは往々にしてある。そういった声は、軸の中に入ってシャットアウトすればよい。きっと一汁一菜の型はあなたを守ってくれる。
 一汁一菜には飛び込んでみないとわからないことばかりである。不自由さに感じられる型のなかでも、実はそこで自由に遊べるのではないかと気づいたとき、一汁一菜は一生モノになるのではないかとおもう。

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今回の一汁一菜

2026/01/18分

豆腐とモロヘイヤの味噌汁
目玉焼き・ソーセージ
レタスの温サラダ
大根の梅甘酢漬け

言ったそばから一汁一菜どころか三菜になっている。別におかずがあるのであれば、用意する余裕があるのであれば、その日のうちに食べないといけないものがあるのであれば、一菜である必要はない。
ちなみにモロヘイヤは秋のうちにゆがいて凍らせておいたものを使ってます。

参考文献

・オルテガ・イ・ガセット(著) 佐々木孝(訳)『大衆の反逆』岩波文庫

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