関西、とくに京阪神にお住まいの方なら、「阪急電鉄」の特徴的な茶色(マルーン)は見覚えがあり、また馴染み深いであろうが、その電車の型の違いまで思いを馳せることはなかなかないだろう。もう、あの色を見たら「=阪急電鉄」という図式が完成しており、細部にまでは目が届かない。
かくいう僕も、路線の違いによって採用している車両が微妙に違うことは認識している(座席がぜんぜん違う)が、どれが何番の電車か、なんていうのはまるで理解していない。あまり解像度が高いとはいえないだろう。ちなみにサムネイルにしているほか、下にも示した写真の、阪急電鉄に見える電車は姉妹線(なんて軽々にいうとファンの方に怒られるだろうが……)ともいえる「能勢電鉄」に譲渡されたものである。だが、あの色=かならずしも阪急電鉄ではないという事態は、ファンの方には申し訳ないが、そんなもん、どうでもいい……このようなことが世の中にはありふれている。

電車や飛行機、自動車などの車種・機種、型の違いがよくわからない、醤油の違いがわからない、カレールーの違いもわからない、アイドルグループの違いがわからない、「若い俳優」はみんな一緒の顔してる、ガンダムの見分けがつかない、仮面ライダーとスーパー戦隊を一緒くたにする、ポケモンとデジモンの違いがわからない……このような事例は枚挙に暇がないだろう。あらゆるモノ、ヒト、コトが溢れる今、なんでもかんでも高い解像度で理解する、というのは不可能である。僕は超ときめき宣伝部もフルーツジッパーもよくわからないし、どっちがどのバズった曲を歌っているのかもよくわかっていない。え、なに?キャンディーチューンっていうのもいる?ああ、もうどうなってるんだ。テレビをほとんど観ないし、よく聞くラジオのFM802では、全くかからないから全くわからない。
だが、別にこれらの差がわかっていなくても、日常生活では困らないはずである。ちょっと困るとしても、せいぜい、おつかいを頼まれたのに、間違ったものを買ってきて怒られるくらいのものではないか、とおもっていたのだが、ちょっと事情は込み入ってそうなのだ。
今は、誰かによってものごとが詳細に分析され、言語化された情報にすぐアクセスすることができる。もしくは、アクセスしようとしていなくても、勝手に飛び込んでくることもある。そして、これらは「高解像度」だなんだといって、もてはやされる。小異の森に分け入り、穿鑿の限りを尽くすことが正義かのように語られる。こんな情報たちに囲まれていたら、なんだか違いがわかっていないことがダメなような気がしてくる。だから、みんなこぞって恰幅のよいおじさんが本やミニチュアに囲まれた部屋でアニメやサブカルの解説をしているのを聞いている。
「違いのわかるオトナ」へ向けた商品というのは色々あるが、多数にとってはどうでもいい事柄に凝ってみせることで、差別化をはかっているだけにすぎず、それにわざわざ乗せられてやることはない。ただの販売戦略である。しかし、その違いがわからないことでなんだか自分がダメなように感じる……という経験はないだろうか。あるいは、物語にちりばめられた情報に気づけなかったことで、それを見つけた他者のポストを見て歯噛みする……というような経験はないだろうか。
近ごろ話題を呼んだ映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』は、上映時間に込められた情報量の厖大さに、多くの観客が圧倒された。1度観るだけでは、処理しきれないほどの情報が詰まっているのである。そこでSNSで活発になるのは「考察」である。どこそこの場面はああいう理由で、あのセリフにはああいう意味が込められていて……云々。もはや「観たけど、よくわかんなかった」という低解像度で適当に楽しむことを許さないレベルで「考察」情報が乱舞した。みんな口を揃えていう、「あれこれの違いはわかったほうが面白いですよ」と。
確かに面白い。他の人はわかってないだろうな〜と思いながら、込められた意図や、隠されたスパイスに気付けると、にわかに興奮が湧き起こる。これは物語の考察だけでなく、一見シンプルに見える料理に隠された、たしかな仕事の痕跡に気づくようなことでも起きる。そういったものに気付けるアンテナというのはできる限りで張っておきたいものである。とはいえ、解像度の高さは「こうしなきゃ」という袋小路に人々を誘う一面をもっている。
たとえば、このブログには多くのスパイスを用いたレシピがあるが、レシピ成立において必ずしも必要なスパイスだけでなく、「好みで入れてる」、「あったら入れる」というスパイスもある。だから、なくてもいい。はずなのだが、「あったら入れる」としているスパイスに対して、「〇〇持ってないから作れない」という声が届いたことがある。レシピを詳しく書けば書くほど、書いてあるものは全て揃っていなければならない、という完璧主義を起動させてしまうらしいのだ。僕は基本レシピを守らないで作ってしまうので、この視点は完全に抜けていた。どうやら僕はレシピの解像度を落として読んでいるっぽいのだ。
僕がレシピを読むとき、材料だけをチェックして、あとは見ない、というのはよくある。調理の過程を読み飛ばす、あるいは大事だと思う工程だけチェックする。なぜなら、似たような料理なら、たいていゴールに向かってやることは決まっているからである。
今日はクラムチャウダーをつくった。最初に香りの素になるにんにくを潰して油で炒め、野菜を入れて炒め、粉を振って炒め、水気(今回は白ワイン)を注いで煮込んで、あさりの缶詰と牛乳を入れて軽く煮込んだら完成……こうしたスープ料理、あるいは煮込み料理において、調理過程は共通する部分が多い。カレーをつくるにもそうだし、クラムチャウダーがつくれるならむろん、ルーなしでシチューもつくれるだろう。筑前煮やきんぴらごぼうだってこんな手順でつくれるはずだ。レシピの解像度を下げてみれば、驚くほどに「ほとんど一緒」というのがわかってくる。あとは細かいテクニックと料理人、料理家の好みで差が出ているだけ。
じつは無視できるような差によって、無限のレシピ市場が生まれている。このことに対して、僕はレシピ氾濫の片棒を担いでしまっているという罪悪感はありながらも、苦々しくおもっている。なので、もうレシピはほとんど書かないことにしているのだ。それよりは、料理をするときの考え方とか、そういう部分を書いていきたい。そんなものよりレシピを見せろ、と言われそうだが、レシピは雄弁に、そして多弁に語ってみせているようで、その内実はどうでもよい差ばかり語っており、核となる部分が見えにくくなっているのだ。もうそのような世界に加担する気にはなれない。
なんでも解像度が高けりゃいいというものではない。それは人々を完璧主義に陥らせてしまい、満たされなければ不幸せのようにおもえてしまう。しかし、解像度を落とすこともときには必要である。レシピのように、解像度を落とすことでそこに共通する部分を取り出し、応用可能性を広げることができるからだ。そこで、僕は解像度を上げたり下げたり、行ったり来たりする稽古を毎日行っている。これは松岡正剛のはじめた「編集工学」を教える学校で行われている稽古がもとになっている。
毎日お題を自分で考え、まずはその単語に関する事柄を書き連ねる。それから、お題によく似た構造を持っているものはなにか、考えてみるのだ。たとえば、「フリーペーパーは校長先生のお話のようなものだ。なぜならどれだけありがたい内容が入っていても、受け手にその意思がなければ素通りしてしまう」とか、「ひろゆきはプリズムのようなものだ。なぜならそれ(彼)を通して出たものにみんな感嘆するからだ」とか、「クレジットカードとはスカートの中のようなものだ。なぜなら、悪意をもった人間につけ狙われている秘密の部分だからだ」……云々。一見関係のなさそうなものの間にひそむ共通点を炙り出し、やや強引にでも繋ぎ合わせて遊んでみる。すると、物事の複雑性の中の一部を取り上げているだけだから、複雑さは解消したわけではないものの、案外似通ったものも多いな、と気づく。いったん解像度を落とし、なにも知らない子どもみたいに考えてみる、というのは、先入観でごわごわに固まったものをほぐしてくれる。
野球のルールに関して、「なんで打ったら左(三塁側)に走らないの?」みたいな素朴な疑問を、やれやれと一笑に付す前に、真剣に考えてみれば、そこに新たな面白さのもとが隠れているかもしれない。そこから、なぜあんなにも野球には権威があるのかというところにまで迫れるかもしれない。そうした解像度の低い目線から芯を食った意見が飛び出すことを面白がれる(これはinterestingのほうだ)世の中のほうがいい。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/02/02分
大根・大根菜・油揚げの味噌汁
鮭フライ・カキフライ・タルタルソース
大根と京菜の漬物
父の所望でフライがついた。かなり豪華になっている。フライはさすがにわざわざ家で揚げたものではなく、買ってきたものである。タルタルソースは3分クッキングで見かけた、和風タルタルソース。ゆで卵、細ネギ、醤油、からし、マヨネーズを適当に混ぜてつくる。
参考文献
・安藤昭子『才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10の思考法』ディスカヴァー・トゥエンティワン
・佐々木典士・山口祐加『自炊の壁 料理の「めんどい」を乗り越える100の方法』ダイヤモンド社
・スティーヴン・レヴィット・スティーヴン・ダブナー(著) 櫻井祐子(訳)『0ベース思考』ダイヤモンド社








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