0036 腑に落ちないものは、一時保管

百汁百菜

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 人文書、とくに哲学書や宗教学の本は、いくら解説書であっても、腑に落ちない部分というのはよく出てくる。哲人たちが考えに考え、悩みに悩んだことを、できるだけ周りに伝わるような言葉を選び、しかしときには迂回し、文字通り魂を削りながら刻んだものなのだから、そうやすやすと了解できるわけがない。様々な研究者たちによって噛み砕かれ、敷衍ふえんされ、パラフレーズされても、なお呑み下せないようなことはよくおこる。結局は他人の考えだ。哲人たちの腹の中まで探り尽くすことはできない。腑に落ちなくて当然なのだ。それでも、「わかってみたい」と思わせる考えがこれまで(そして、これから)の哲人たちから提出されおり、いまもなお、多くの人々を惹きつけている。
 別に哲学に限ったことではなく、アニメやドラマ、映画でもよいし、音楽でもそうだ。何か腑に落ちないことがあっても、じっくりと何かの考えと対峙する時間をなかなか持てないでいる現代人はついつい「解説」「考察」に頼る。むろん、意見の一つとして聞く価値があるものもあるし、補助線として用いるのはよいことだと思うが、「誰々が言ったからこうだ」と短絡的に正解(のようなもの)に飛びつきがちだ。一旦腑に落ちなかったことでも、時が経てば急にわかるというようなことがおこったりするものだが、それを待てないのだ。今わからないと困る!とみんな焦っている。わからないものをわからないままにして置いておけるほど、今の世はゆったり進んでいない。

 腑に落ちるとは文字通り消化し、自らの一部として取り込むことなのだ。でも、そんな身体感覚を忘れて、頭の中だけで考えて、どうにか納得させようとしている。
 まさに養老孟司が指摘したような「脳化社会」に染まっているのである。不確実性(≒自然)を嫌う脳には、確実なもの(=人工物)で世界を覆う欲があり、法や常識、学問など、脳が御し切れる世界に安住したいとおもっている。そんな脳内で作り上げた世界こそが実体であると思い込むのが、「脳化社会」である。
 頭だけで考えているかぎり、腑に落ちることはないだろう。そこには身体が欠けているからだ。とくに哲学というのは理屈ばっかりで、まさに頭の中だけで考えていそうなものにみえる。だが、身体へのまなざし、周りのもの(世界)へのまなざしも注がれてきた。カントは頭でっかちではあったが、自然を通して美とはなにか考えた。ウィトゲンシュタインは世界の「へり」のようなものを見つめ、ハイデガーは手許にあるものから存在を記述していこうとした。このようにいくらでも挙げて行けるだろうが、寡聞にしてそれ以上はよく知らないから、ここまでにしておく。

 人の知性というのは、脳だけにとどまっていない。アメリカの認知科学者、スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックの共著、『知ってるつもり 無知の科学』では、「頭蓋骨によって脳の境界は定められるかもしれないが、知識の境界はない。知性は脳にとどまらず、身体、環境、そして他の人々をも含む」(p.23)としたうえで、人間の知性について、次のような所見を述べている。

私たちの知性は必然的に、自らの脳に入っている情報と、外部環境に存在する情報とを連続体として扱うような設計になっている。
(中略)
私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。それができないのは、そもそも明確な線など存在しないためである。だから自分が知らないことを知らない、ということが往々にしてある。

『知ってるつもり無知の科学』p.24

 著者たちは「水洗トイレの仕組みを説明できるか?」という問いや、「簡単に描かれた自転車の絵を見せられて、足りないものを補えるか?」という問いから、この人間の知性のありかたに切り込んでいく。サドルとハンドル、簡単なフレームと、スポークの省かれた、ただ円いだけのタイヤが描かれた自転車に足りないものは何か、みなさんも少し考えてみてほしい。そして、それを適切な位置に描き足すことができるだろうか……

『知ってるつもり 無知の科学』p.34 図2をもとに作成

 おそらく、失礼な話だが、自転車を趣味にしている方、自転車の修理を仕事にされている方でも、正確に描くのはむずかしいだろう。なぜなら、それは仕事にしておられる方であっても、「見ればわかる」ものだから、頭の中にないのである。しかし、頭の中に、完全に機構を再現することができなくても、現物の自転車を目の前にすれば、すぐに理解することができる。人間はこのように、自分の頭の外にあるもの、世界にあるものを記憶装置の一部として利用している。人が「わかる」というとき、「その知識がどこに置いてあるか」ならわかっているというケースは非常に多いはずだ。すぐに頭の中からとりだせる人、当意即妙に応答できる人が知性のある人という認識をされがちだが、必ずしもそうではない。別にすぐ引き出せなくても、どの知識がどこにあるのかをよく覚えていれば、それは知性があるといって差し支えないであろう。「いかに暗記しているか」が問われた受験戦争によって、頭の中にあることがよいことだと皆刷り込まれてしまったのである。

 人間の知性というものは脳の中に閉じこもっているものではない。外部環境も利用して知性がなりたっている。そこで、もし腑に落ちなかったことがらでも、一旦外に出して保留しておく、というのは有効である。いずれ自分のものにしたいのなら、その知識を置いた場所を覚えておけばいい(どうでもよければ忘れたらいい)。「どの本のどのあたり」かを覚えておくとか、一旦抜き書きするノートを作るとかでもいいだろう。図書館にある本とかでもいいが、いつでも取り出せるわけではないから、できれば欲しいときにすぐ取り出せる範囲に置いておいたほうがいい。
 わからないことを、すぐにわかろうとするのではなく、一旦保留して保管しておけば、何かの拍子にピンと来ることがある。シャワーを浴びているときにそういうことがよくひらめくと言われているらしいが、実際に僕もシャワーでひらめいて、すぐにでもメモしたいのに、全身ずぶ濡れというのは何度も経験したことがある。あのもどかしさったらないが、忘れないように必死に反芻するあのときの興奮と焦りがないまぜになったあの感覚、まさにそれが「ユリイカ」なのかもしれない。

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2026/02/04分

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キャベツ・にんじん・きのこの味噌汁

恵方巻についてはこちらを参照。2日目はすましではなく味噌汁にした。

参考文献

・スティーブン・スローマン フィリップ・ファーンバック(著) 土方奈美(訳)『知ってるつもり 無知の科学』早川書房
・養老孟司『日本人の身体観の歴史』法藏館

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