中学生のころ、自転車で塾に急ぐ道のなか、流れ星を見たことがある。あまりに唐突で、あまりに一瞬のできごとだから、願いを言う前に消えてしまった。「流れ星を見たら願いを三度唱える」なんて誰が言い出したか知らないが、なかなか絶妙なラインを突く。まず流れ星に出くわしたことへの驚きが勝るから、ただの一度も願いを唱えられない(これが僕だ)のがほとんどなのに、それを三度唱えないといけない。仮に唱えられたとしても、込み入った願いでは時間が足りず、また、流れ星を見つけたらすぐに唱えないといけないから、常日頃から希っているものでないと咄嗟に出てこない。その頃の僕はというと……何を願っていただろうか。「志望校に受かる」だとか、「好きな子と両思いになりたい」だとかそんなところか。その当時としては大問題であり、今となってはつまらない願いだ。だけど、あのころはまだ星空を見上げることができていた。だから流れ星に気づくこともできた。ところが今はどうだ。手元に光る板に夢中になっている。そこには胸がいっぱいになるような願いはあるのか?今と昔、はたしてつまらないのはどっちだろうか。
今の人が夜空を見るとき、それは「天体ショー」の時分だけになってやしないか。そもそも、都会はおろか、郊外でもあまり星がきれいには見えない。見えない星に目を凝らし、何か想像を膨らませるよりも、眼前の板の上で光るキラキラや、野外広告のほうがよっぽど眩しいのだ。
月だって、月食なり、月見の季節にはもてはやすけど、みんなが注目している「月」はたいていパンに挟まれている。ファストフード業界をはじめとした外食業界はすっかり空の上のお月さまよりも、皿の上のお月さまにぞっこんなのだ。あまりにも乱発される「月見フェア」の画一的な光景にはほとほと嫌気がさす。示し合わせたかのように、どこも青と黄と白をあしらった同じようなデザインで、いったいどの店のフェアかわからなくなる。それが狙いだとしたら、いったいこれまで腐心してきたであろう「差別化」とはなんだったのかと言いたくなる。竹取物語このかた、人々の想像力を掻き立て、さまざまな物語の舞台を提供してきた月は、「月見フェア」によってとうとう金儲けの道具へと墜落してしまった。これではタルホもセイゴオも浮かばれない。

稲垣足穂の『一千一秒物語』は、失われた天体に対する格別の想像力を刺激してくれる。松岡正剛は『フラジャイル 弱さからの出発』において、この『一千一秒物語』を、「オブジェクティブ・コント」(p.148)であると評した。月から紳士が出てきたり、月とけんかしてピストルで撃ち落としたり、月の光で酒を醸造する連中がいたり、星でパンをこしらえたり、なんだとおもって食べたものが星だったり、ビールびんの中に箒星が入っているんだという人が現れたり……そして、これらの話は大抵人生を左右せず、松岡正剛に言わせれば、「ちょっとしたこと」ばかりで終わるのだ。
日常の中に、「あれはなんだったっけな?」とちょっと不思議におもうことがちょっと起こって、それでおしまい。ちょっと意識がぼんやりしている間に、星々が動いていたりしたら……とか、お月さまが昇っていくとき、どっかの誰かが月から出てきた紳士を見ていたのかもしれない……とか、そういう想像力を刺激してくる話が延々と続く。僕らはもう、特別なときでないと空を見上げたりしないが、タルホの世界観に接すると、もしかしたらどこかで何かが起こっているかもしれないという気になってくる。
現代の読者はその「入っていけなさ」に面食らってしまうかもしれない。科学技術が地表を覆い、養老孟司のいう「脳化社会」の住人となってしまっていれば、これらは到底受け入れられない話ばかりだ。物事には筋が通っていないといけない、決まった一つの答えがないといけないと考えていたら、間違いなく振り落とされる。タルホの世界のルールと、現実世界のルールは違うのだ。この『一千一秒物語』に答えはない。すべては次の話に集約される。
A氏の説によるとそれはそれはたいへんな どう申してよいか びっくりするようなことがあります それでおしまい
稲垣足穂『一千一秒物語』「IT’S NOTHING ELSE」
なんといったらいいのかわからないが、びっくりするようなことがあった……こんなこと、子どもの頃なら当たり前に起きていたはずなのに、今では、いちいち驚かなくなってしまっている。大した意味はないかもしれないけど、自分にとっては大発見ということにも喜べなくなっている。なんでもネタバレ社会だなんだといって、ネットでちょっと調べたり、SNSをちょっと覗いたぐらいで、この世界のことがわかった気になっている。そして、意味がないといけない病気にかかっている。でも、意味のないことのほうがついつい気にかかるということはないだろうか(ちなみに、意味のないことに意味を見いだしすぎたのが「スピリチュアル」であると僕は考えている)。
例えば、星座占いなんてどうだ。小学校〜高校生のころなんかは、好きなあの子との相性なんかも熱心に確認していた覚えがある。今となってはもう意味なんてないとおもっているにも関わらず、朝の番組で流れていたら、なんとなく気になってしまう。星座を気にするとき、星々が結ぶ線ではなく、自分の運勢というのはちょっとちっぽけすぎる気もするが、フト気にかかってしまうのだ。今でも残る、その意味のないものに向けられるアンテナの残骸は、綺麗にしてしまわないほうがいい。
稲垣足穂は意味のないことを意味ありげに語り始めるが、意味づけしすぎる前に、ピシャリと物語を終えてしまう。この塩梅とタイミングが絶妙なのだ。スピリチュアルには傾かない。そして、それぞれのオブジェクトに、こんな背景があったら面白いよな、というところをこれまた気持ちよく突いてくる。「赤鉛筆の由来」に刺激されたツボはいまだに僕の心をくすぐってくる。
昨夜 自分は夢に赤いホーキ星が煙突や屋根をかすめて通ってきて 物干場の竿にひッかかって落ちたのを見た ところでけさ起きてしらべてみると この赤いコッピーエンピツが落ちていたのである
稲垣足穂『一千一秒物語』「赤鉛筆の由来」
それに続く「土星が三つ出来た話」、これが一番のお気に入りである。
街かどのバーへ土星が飲みにくるというので しらべてみたら只の人間であった その人間がどうして土星になったかというと 話に輪をかける癖があるからだと そんなことに輪をかけて 土星がくるなんて云った男のほうが土星だと云ったら そんなつまらない話に輪をかけて しゃれたつもりの君こそ土星だと云われた
稲垣足穂『一千一秒物語』「土星が三つ出来た話」
いくらでもこの世の中を面白がれる目線は、松岡正剛と稲垣足穂にもらったものだとおもっている。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/02/09分
里芋・にんじん・油揚げの味噌汁
大根と京菜の漬物
鮭フレーク
参考文献
・稲垣足穂『天体嗜好症 一千一秒物語』河出文庫
・松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫







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