「縛りプレイ」で「快」といっても、SMプレイのことではない。ここでいう「縛りプレイ」とは、ビデオ・ゲームにおける、攻略上有利な行動や使用を推奨されているキャラクターを使わない、といった「自らの行動を縛り緊張感をもって行うゲームプレイ」のことである。
そして、「一汁一菜の食生活を続けている」ことはまさにその「縛りプレイ」ではないのか——日本にはこんなにも美味しいものがいっぱいあるのに——と思われるかもしれない。でも、僕にとっては、その一汁一菜はちっとも縛りプレイに感じられていないし、ただ単に「快」なのでもうやめる気になれないでいる。そして、それは中毒性を伴い身体を侵すような快ではなく、目的を超えた先にある、「それだけで意にかなう」快なのである。
この日本は美食大国であり、どこに行ってもある程度の味のものを安く食べることができる。それに加えて食文化のるつぼでもあるから、朝は和食、昼はインド・ネパール料理、夜はフレンチなど、世界各地の料理を日本にいながら縦横無尽に楽しむことができるし、それらが化学反応を起こした創発的料理が日々生まれては、SNSやYouTube、テレビを賑わせる。
日々流れてくる美味しいもの情報に目を通し、脳内食べたいものフォルダに入れ(もちろん、メモアプリなんかに書きつけていってもいい)、今日はこれ、明日はあれ、明後日はどれにしようかな……と悩む時間はきっと愉快なんだろう。でも、僕はそういったことに時間も判断能力も使いたくなくなってしまったのである。
このブログだって数多ある「美味しいもの情報」を世に発信するもののひとつであるにも関わらず、自らその価値を否定するようなことを言ってどうするんだ、と指弾されても仕方のないことを今僕は言っている。でも僕は、どこまでいっても満足できないのに、美味しいものを永遠に追い続けてどうするんだと思ってしまったのである。美味しいものへの欲求を掻き立て、焚き付け、奮わせて、一度入ったら自分の居場所を見失ってしまうような、食欲の樹海ともいえる魔境に人々を誘うメディアではありたくないと思ってしまったのである。
もはや今、日本の食は型を失っているといってもいいだろう。人々は食欲の樹海でさまよっている。出口がわからないから、「次はこっち」「その次はあっちね」という情報にホイホイ流されてしまい、挙句の果てには、自分がなにを食べたいのかすらわからなくなる。そんな人々に救いの手を差し伸べたのはXにいる料理研究家ではなく、冷凍宅配食サービスであった。なるほど、これには一定の型があり、自分で選んだ献立を届けてもらえるから、食事を自分の手に取り戻せた、という感覚を持てるかもしれない。でも、結局待っているのは飽きと、自活能力の喪失である。
宅配冷凍食は確かに便利だろう(使ったことがないので想像で言う)けど、効率化とサービス安定のために基準をはみ出ることが許されないから、柔軟性に乏しいのではないかと思う。おかずが3つと決まっていたら必ず3つ入っているし、レンジで解凍する以上、調理法にも限りがある。刺身なんてとても出てこないし、生野菜も望めない。生を尊ぶ日本人において、生のものが食べられない、というのは飽きが来る要因になりうるだろう。
そして、レンジでチンすることにすっかり慣れて、頼りっきりとなってしまえば自活能力は失われる。食という人間の生命維持に関する部分、まさに首根っこを外部サービスに掴まれてしまうのである。そして、サービス利用を維持するために、あなたはこれまでかそれ以上に働くことをやめられなくなる。宅配冷凍食サービスなどは、確かに便利だけど、完全に依存してしまうのは危ないだろう。
じゃあ、いったい今の僕らには何が食の指針となってくれるのか。それこそ一汁一菜である。土井善晴は言う。
暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。その柱となるのが食事です。一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです。
それには一汁一菜です。土井善晴『一汁一菜でよいという提案』p.9 グラフィック社
生活のリズムを刻み、毎日自分が帰ってこれる場所を整えるのが一汁一菜という型であると土井は言う。コンフォートゾーンと言ってもいいだろう。自分が快適だと思える場所を整えるのが一汁一菜なのである。事実、僕にとってのコンフォートゾーンとして一汁一菜は存在しており、それは「快」なのである。そして、僕が一汁一菜を「快」だというとき、もはやそこに目的はなく、「ただ意にかなう」。ここで僕は思い出したのが、カントの言う「美」と似ているのではないか、ということである。
僕は今、一汁一菜を何か目的があって続けているのではない。確かに最初は「毎晩夕食を考えるのが面倒」だとか、「ヘルシーな食事で痩せたい」といった目的があった。そして、その目的は果たされてしまった。特に体型に関しては齢30にして高校生時代と同水準を保っており、15年前に買ったジーンズを難なく穿きこなすことができている。体脂肪率もタニタの体組成計によれば5〜6パーセント程度をうろうろしている(季節によって変動する)。
「毎晩夕食を考えるのが面倒」は言わずもがな、「ヘルシーな食事で痩せたい」という目的は果たされたのだから、もう一汁一菜を続ける意味はないのではないか。「組み立てる」という目的は果たされたから売りに出されるプラモデルのように。
でも、僕は一汁一菜をやめなかった。もはや生き方として染み付いてしまったのだろう。丸2年が経つけど、全然やめる気になれない。やめる理由が見つからない。一汁一菜以上に僕の心をとらえる食事の型なんてあるのだろうか、まったく想像がつかない。世界が資本主義経済以上のものを生み出せず、それを手放せないように、僕も一汁一菜を手放せないのである。目的を欠いても「ただ意にかなう」カントのいう「美」のようなものへと昇華していったといえるかもしれない。
しかし、一汁一菜を「美」と呼んでよいのだろうか。それにはいくつかの条件がある。カントに言わせれば、あるものを「美しい」というときには、関心を離れて「ただ意にかなう」ものでなければならず、また、「主観的普遍性」と言い表されるような、主観的な「快」の感覚でありながら、他者に対して同意への要求がともなっているものだというのである。
関心を離れるというのはどういうことか。それは、「何の利害関係も前提されておらず、われわれが意図したわけでもないのに、ある対象がそれ自身の性質ゆえに、美しいと判定される」と石川文康は説明している。(『カント入門』p.197 ちくま新書)
そして、「主観的普遍性」というものは、「万人に対する妥当性への要求」であって、単に「僕にとって一汁一菜は快適だ」というだけでは、それは「美」ではない。普遍妥当性を求めないのであれば、「美」ということばは使ってはならないというのだ。
そういう意味では、一汁一菜の型は「美」には到らないのかもしれない。現代社会で普遍性を主張するのは非常に困難である。一汁一菜的な食事の写真が定期的に拡散され、賛意や憧れを得ていることから、そういった食事形態を「良いもの」と見做す視線がある一方で、ビンボーだとか、脱成長的だろうとか、自分いたわりアピールだとか、貶す視線も少なからずあろう。「個人個人の特殊な事情を除去すれば、万人において一様」(前掲書 p.199)なのが「美」の判定だとカントは考えていても、それを人間は除去できない。観念的な問題に立ち入ってまで、一汁一菜にまつわる誤解を解き、一汁一菜の普遍性を説こうとは思っていない。けれども、これから僕はこの場をつかって、一汁一菜にかこつけて考えたことを開陳していくことで、自分自身の考えの整理を兼ねつつ、読者の皆さんにも考えてもらえるような場にしていきたいと思う。
今はまだ、「僕にとって」一汁一菜は快適であると言うにとどめておくが、いずれ、「みんなにとって」快適なものになるかもしれない。そうなったとき、僕がここに記していった一汁一菜にまつわる論考はウィトゲンシュタインふうに言えば、「投げ棄てるべき梯子」となるだろう。
今回の一汁一菜

2025/12/02分
大根菜の菜飯
大根・大根菜の味噌汁
明太子
ちょうどこの頃、大根が畑で採れ始めたので、大根づくしの夕餉となっている。大根菜はゆがいて水気を絞り、塩と混ぜてからご飯と混ぜる、白ごはん.com方式でつくった。
参考文献
・石川文康『カント入門』ちくま新書
・熊野純彦『カント 美と倫理のはざまで』講談社
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社
・古田徹也『シリーズ◆世界の思想 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』角川選書





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