ハイデガーの『存在と時間』における議論は人生論として読むことができ、僕も大いに勇気づけられた。アドラー、ニーチェと並んで日本では人気のある人生哲学なのではないだろうか。まさにその語る内容が、日本人の大好物なのであるから仕方ない。要するに「周りに埋もれて安心しているんじゃなくて、自分自身の人生を掴み取りなさい」「君は今のままの生き方で死んでもかまわないのかね」……そのように読めるからである。島国の特徴か、同質化への圧力が強く、周囲の顔色を窺い、はみ出さない生き方を求められる日本人にとっては、大いに励みになる人生哲学だろう。
ただ、ハイデガーの語り口は独特である。僕もまだ原著にはあたれていない。既存の哲学用語では言わんとすることが歪んでしまうと、独自の用語を駆使して語るため、とっつきにくいのだ。片手にハイデガー辞典のようなものを用意する必要が出てきてしまうほどである。ハイデガー解説書を読むうえでもそうなってしまう。ただ、これは作家の筒井康隆が講演に向けて平易に語り下ろしたものを一冊にまとめた『誰にもわかるハイデガー』が導入の助けになってくれた。〈世人〉〈頽落〉〈非本来的な生き方〉〈死に先駆しつつ決意したありかた〉……一目みればなんのこっちゃだが、慣れればよくわかるような気がしてくる。でも、それがかえってよくわからなさを生み出すからハイデガーは難しい。当面はハイデガー解説書での助走が必要そうだ。
さて、ハイデガーの『存在と時間』内における議論で、特に印象に残るのは〈非本来的な生き方〉をする〈頽落〉した〈世人〉たちの議論であろう。
「皆と同じだから安心だ」という〈世人〉たちの人生は、自分自身を回避している〈非本来的な生き方〉であるとし、それは空気のように世間に蔓延しているだけでなく、周囲に対し、「同じように生きよ」と規範的圧力を発しているという。それに馴染めないマイノリティにとっては息苦しい世の中である。だが、〈世人〉たちが発する圧力を跳ね除け、自分自身の人生を掴み直し、〈本来的な生き方〉へと人はむかってゆける……。そのためには、人は自分自身の〈存在〉の終局たる死の可能性に対して〈先駆〉し、どこまでも自分自身を担い抜く〈覚悟〉をもたねばならないというのだ。
ここを読んでみれば、なるほど人生論として読めるし、実際に僕はこれを読んで「まさにこれがやりたかったことなんだ!」と膝を打ったものだ。しかし、『存在と時間』は未完の書物である。〈存在〉とはなんたるかを語るうえで、道具に始まり、人間へと向かったハイデガーだが、結局〈存在〉ってなんだ?という答えを示すことができないままに終わってしまっている。ハイデガーは別に人生哲学だけを論じたかったわけではない。〈存在〉の意味について、語りたかったのだが、『存在と時間』では挫折してしまったのだ。なぜ挫折したか……というのを語ってしまうと、大きく話が逸れることになってしまうので、ここでは割愛する。轟孝夫『ハイデガーの哲学『存在と時間』から後期の思索まで』にこのあたりの事情が詳しいから、そちらを参照されたい。
ハイデガーは『存在と時間』ののち、さまざまな語彙を用いて〈存在〉をとらえなおしたり、〈存在〉の周辺領域を語ることによって、より思索を磨いていった。そのなかで登場したのが、〈フォルク〉という概念である。ドイツ語で「フォルク(volk)」は民族や国家、民衆といった意味だが、ハイデガーはこれを「人種的なもの」というナショナリズム的な意味からより純化し、「風土的なもの」として捉えていた。ハイデガーは一時期ナチスに加担するものの、結局袂を分かつことになったのは、この〈フォルク〉観の違いであったといわれる(轟孝夫『ハイデガーの哲学』p.263)。
ハイデガーは〈フォルク〉によって人種主義を表明したかったのではない。〈存在〉が生起する場の土着性、地域性に着目し、それを「風土」としてとらえようとしたのだ。いくらグローバリズムが唱えられ、世界中、たいていどこにでも行けるようになり、また、各国間で同質化が進んでいたとしても、あらゆる〈存在〉は、それが生まれた「風土」からは逃れられないのだ。これについて、ハイデガーの議論は『存在と時間』から一貫している。ハイデガーは〈現存在〉において、自己の存在を自分で規定できず、むしろ自分は自己と他なるものによって規定されていることを自覚することを〈覚悟〉といった。自己を真正面から受け止め、また自己についてもっとも根源的かつ包括的な知を求めることが〈良心を-もつことを-欲する〉ことであるといった。ここでいいたいのは、自分を規定する、自己と他なるものこそ「風土」であり〈フォルク〉の実質であり、また自己についてもっとも根源的かつ包括的な知こそがまた「風土」であり〈フォルク〉の実質なのである。
僕らはみんな生まれながらにして〈フォルク〉によって規定され、また貫かれている。自分で「ここに生まれる」なんて誰にも決められないのである。人々はそれぞれの「風土」たる〈フォルク〉に投げ込まれて(=〈被投〉)誕生しているといってもよい。
別にナショナリズムを喚起したいわけではない。生まれた土地だからといって、その全てを愛さなければならない、とは思わない。しかし、僕ら日本人を規定している「風土」とはなんだ?という問いを捨て、世界を席巻するモノの考えにその身を浸して邁進する様を苦々しくおもっている、ただそれだけなのだ。自分を根源的に規定する日本の〈フォルク〉を無視して、何が世界標準だグローバリズムだネオリベだ、と僕はいいたい。「日本の方法」が失われている、というのは前回(0028 自炊からはじめる「編集」)でも指摘しておいた。無批判で西洋の方法を取り入れすぎたのである。明治維新のころは、まだ日本とは何か、考える意識があった。しかし、敗戦後はもう、その気力は残されていなかった。
かねてよりの陋習があれこれと砕かれて人々の流動性が増したのはよいことだろうが、国を支えるありとあらゆる骨も一緒に砕かれてしまった。「編集」が得意技であったのだから、外部から取り入れる方法に関して、日本なりの「編集」をくわえる必要があったのだ。強烈な求心力にすがるのではなく、さまざまな「編集」が花咲き、異質性が乱舞するのが日本の〈フォルク〉だったのではないか。非難されがちな「曖昧さ」も日本らしさをつくるのに一役買っていたはずなのである。なるほど、曖昧さの中で左見右見していれば世界に取り残される。確かにそうだ。しかし、なんでもかんでも世界と足並みを揃えないといけない、というのもまたおかしな話である。
日本の〈フォルク〉と世界を席巻するものの考えを、それぞれ並べて行ったり来たりしながら考える、「デュアルな視点」をもって世界に臨みたいものであるが、そもそもの教育機関が、画一的な一本道を進ませようとしているのだから、期待はもてない。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/23分
大根・わかめ・油揚げの味噌汁
唐揚げ(父親作)
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり
参考文献
・高井ゆと里『ハイデガー 世界内存在を生きる』講談社選書メチエ
・筒井康隆『誰にもわかるハイデガー:文学部唯野教授・最終講義』河出書房新社
・轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書
・松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』講談社現代新書







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