「キミの作る味は上品な味やね」
ちょっと昔、僕が冷凍餃子屋でアルバイトしていたとき、そこの新商品開発に少し噛ませてもらっていたのだが、その際に僕を誘ったオジサンから言われた言葉である。これはけっして褒め言葉ではない。続く言葉は、「商品を買ったお客さんは、値段相応かそれ以上のガツンとした味を求めているんだ」と。「確かに何個も食べたくなるのは利点だけど、うちの商売には合っていない」ということらしい。商売人として、正しい意見だ。僕もそれには首肯する。が、それならば僕でない人間に開発を任せたほうがよりよい結果をもたらしてくれるだろう。僕はもはや「美味しすぎる」ものを作れない。むしろ「美味しすぎない」ものを愛しているからだ。
世の中はもはや「美味しすぎる」もので溢れている。外で食べて美味しいのは当たり前だが、それが家庭料理にも侵入している。味の素を利用してまでも、うまみを追求する家庭料理も現れた(というよりは、復古した)。その際、理由のひとつとして持ち出されるのは「外食でもいっぱい使われている」かららしい。僕からすれば、それはあんまり理由になっていないとおもうのだが。外食は外食、家庭料理には家庭料理の領分というものがあるのだから、無理に横断する必要はないとおもう。なんでも一つにして、「正解」を見出そうとする風潮に、僕は与しない。
味の素が味付けにおいて欠かせないということは、ほとんどないだろう。昆布やトマトを介さずにグルタミン酸を付加できる利点は認めよう。しかし、どうしても味の素によるグルタミン酸がないと成立しない料理なんて存在するのだろうか。味の素は、もうすでに美味しいはずのものをさらにうまくしたい、というときに使われるのがほとんどではないだろうか。
品種改良と栽培環境の向上によって、昔よりもうんと臭みがなくなり、美味しくなった野菜は、もはや塩だけで美味しい。素材そのものにもうまみがあり、甘みがあり、苦味があり、酸味がある……これをみんな忘れている。加工が前提である西洋料理の精神をみんな取り込みすぎた。とにかく何かしら手を加えないと料理だと思えない、という考えが、料理のハードルを高くしているといえる。それをぐっと押し下げてくれるのが、一汁一菜である。
僕が一汁一菜でつくる味噌汁は、味付けを出汁の素に含まれている塩分と、味噌だけで行うようにしている。それ以上の「味」を構成するものはほぼ入れない。またのちの記事で触れることになる予定だが、出汁の素は煮干しか鰹節と決めており、出汁パックや顆粒の出汁の素の類は使わない。あとは、具材から出た味で勝負する。するとどうだ。毎回「めちゃくちゃ美味しい」とは限らないものができる。めちゃくちゃ美味くて、ご飯をおかわりしたくなるほどの出来栄えの日もあれば、おかずでご飯を食べよっか……となる日もある。しかし、これこそ継続の秘訣なのだ。
「美味しすぎる」ものは容易に飽きるし、また、基準に達しなかったときの失望感が激しい。一方、味付けを出汁の素と味噌に丸投げしてしまい、出たとこ勝負で挑む味噌汁は、毎回その振れ幅がたのしい。別に美味しすぎなくったって、味噌で最低限の味は確保されているのだから、臆せず挑むことができるし、特段加工をしていないのだから、それなりの味でも「まーいっか」と思えるのだ。また、たしか映画『君の名は。』(新海誠監督作品のほう)では、丁寧に出汁をとって味噌汁を作っている場面があったと記憶しているが、あんなにしっかり仕事をしなくても、味噌汁はできる。もっと基準は下げてよい。でないと続けられないだろう。
水野仁輔はたびたび「美味しすぎない」カレーを目指していると言っていた。僕もそれに倣って「美味しすぎない」カレーを度々作った。スリランカカレーに傾倒したのもそれが理由だ。一つでは「美味しすぎない」が、複数のおかずとカレーが合わさったときに新たな美味しさが生まれる余地がスリランカカレーにはあり、僕の思想とフィットした。一汁一菜だって、味噌汁だけでは完成せず、おかずを添えて完成するのだ。僕はあまりおかずを多く食べないし、作らないけど、味噌汁がそこそこの味でも、おかずがあればなんとかなるという安心感がある。逆におかずがそこそこでも味噌汁がうまい、ということもあろう。一つで完成させよう、立派なものにしようとする必要はないのだ。

より良く!より高く!より強く!と刷り込まれてきた僕らには、こういった態度が脱成長的に見え、また、基準を下げるのは悪だ、落ちこぼれのやることだ、と思えてしまうだろうが、誰もがなんでも、高い基準でものごとに臨めばいいということはないだろう。みんなうまくやろう、ちゃんとやろうとしすぎなのである。余白というものがない。オルテガ・イ・ガセットの表現を借りれば、すでにこの世は「充満」そして「密集」している。それでもなお、ほんの隙間でもあれば埋めようとするし、それが間に合わなければ高く積み上げようとするのだ。高く積み上げたものは、ほんの少しの衝撃でも大きく揺さぶられる。「究極的に美味しい」ものが仮にあったとして、また別の「究極的に美味しい」ものが現れたとき、その立場は激しく揺さぶられる。それで、負けじとさらに美味しいものをつくろうとして、終わりなき闘いが始まるのである。料理家でもコンビニでもなんでも、料理を彩る修辞の度合いが日々その規模を増し、「至高」だの「神」だの「究極」だのと、すでに形而上学の領域にまで達しているのは、このような事情があろう。
僕は形而上学の味を捨てて、日常の味をとることにした。基準は低く、重心も低く。ちょっとやそっとの事情じゃフラつかない、味噌が支える味に生かされている。老子はいう。「多く蔵すれば必ず厚く失う(「多蔵必厚亡」、あまりたくさんのものを溜め込むと、かならずドサっと失われてしまう)」と。そんな考え程度が低い、成長以外はすべて死だとおもうなら、論難するもよかろう。だが僕は少なくとも、落下のショックで死ぬことはないだろうと考えている。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/28分
キャベツ・舞茸・油揚げの味噌汁
自家製なめ茸
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり
キャベツの味噌汁は、それを炒めるかどうかで、大きく表情を変える。直で煮込むと静かに、ちょっと青臭く、甘い味になる。
参考文献
・オルテガ・イ・ガセット(著) 佐々木孝(訳)『大衆の反逆』岩波文庫
・野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫








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