0060 生きるために「キル」する

百汁百菜

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 家庭菜園をやるようになってからというもの、チョウやガを見ると「うっ」と身構えるようになり、ミミズを見ると親しみを抱くようになった。畑・家庭菜園におけるチョウやガ(以後、鱗翅目りんしもく)の幼虫はたいてい害虫であり、駆除の対象となる。一方で、そのウネウネ、テカテカとした見た目と雨上がりに道端で干からびている姿が気持ち悪がられがちなミミズは土中の有機物を分解し、土を肥やしてくれるのでありがたい存在となっている。畑・家庭菜園にミミズはどんどん増えてほしいし、鱗翅目の幼虫にお引き取り願いたい。土を耕している最中にうっかりミミズを殺してしまったらすまないとおもうし、白菜やキャベツを食害する鱗翅目の幼虫を見かけたらすぐさま捕殺する。野菜を育てるにあたって、絶えず命の選別が行われている。あの虫はよくて、この虫はダメ……というふうに。

 僕らの食糧を守るためには、おびただしい数の虫を殺さなければならない。自然に任せっぱなしなんて幻想である。そもそも野菜を育てるという行為自体が「自然」ではないからである。僕らは本来ならそこに植わるはずのない植物を選んで、自らの腹を満たすためにそれを植える。自然のバランスを崩しているのは僕ら人間である。その帳尻合わせなのかは知らないが、害虫(と勝手に分類されてしまった虫)たちは僕らが育てている野菜を目指してどこからともなくやってくる。僕ら人間の都合で勝手に地上に「ここは畑だ」という境界線を引き、それを侵したからと闖入者ちんにゅうしゃに仕立て上げられた、哀れな虫たちである。
 僕は昨シーズンだけでいったいどれだけの害虫を殺し、また、どれだけの益虫を見逃してきたかわからない。鱗翅目の幼虫、バッタ、テントウムシダマシは踏み潰す一方で、クモやミミズ、テントウムシ、カエルには「今日も元気か?」と挨拶をする。畑・家庭菜園というものは、まったく「自然」などではなく、人間の都合によって生み出された「工場」である。ハイデガーはいみじくも、このような事態を「農夫の「耕作すること(Bestellen)」は「育てること」とか「世話をすること」を意味していた。それが今日では、自然を無理強いするという意味での「注文すること(Bestellen)」へと変化した」(轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』p.436)と、ドイツ語「Bestellen」の多義性を用いて指摘した。
 僕らは大地に対し、ただひたすらに「注文」するようになってしまった。その裏ではたらく命のやりとりからはすっかり目を背けて。命のやり取りは精肉や魚介類の領域でのみおこっているのではない。野菜を育てるなかでも、多くの命が失われ、また多くの命が生かされている。

 僕は家庭菜園をやるが、別にベジタリアンでもヴィーガンでもない。味噌汁の出汁には煮干しや鰹節をつかい、また卵も肉も食する。とはいえ、ベジタリアンないしヴィーガンの人々が何を考えているのか、というのは気になる。彼らがいったいどう命と向き合っているのか、もしかしたら僕の考えていることに接続可能なのではないかとおもって、その著書を繙いてみたことがある。結論から言えば、僕は彼らの考えには同意できないということがわかった。たとえば、次のような一節である。

 植物は、動物や人間という種の食べ物として地球が与えたもの、と私は考える。やがて人間は、与えられたものから再び同じ物を作り出す植物の栽培を、食物調達の方法として知った。それは命を奪うのでなく、命を生み出すことである。動物は植物の命を、食べるという行為によってからだの中に入れ、新しい命として再生する。ベジタリアンが自ら大地を耕して、穀物や豆類や野菜を作り出すのは、すでに存在している命を食物とするために奪うのではなく、命を生み出して食物とする行為なのだ。自らの命を支えるためには自らの手で命を作り出す、という意思の表れであり、その実践である。なぜならベジタリアンは、「命を与える、力強くする、健康にする」者であるからだ。野菜を栽培してそれを食べることで、そうできるのだ。

鶴田静『宮沢賢治の菜食思想』p.102

 なるほど、最初の「植物は動物や人間という種の食べ物として地球が与えたもの」という部分以外は首肯できる記述である(いかにもキリスト教的な考え方で、僕はここには賛同できない)。僕らは確かに命を生み出し、育んでいる。だが、次のような考えと接続されたとき、僕はおそらくベジタリアンにも、ヴィーガンにもなれないであろうとおもった。

 動物を食べるのが罪悪なら、植物を食べるのも罪悪であるのは道理だろう。だが、その存在の意味が違うのではないだろうか。動物は、食べられるために存在しているのではない。だがある種の植物は、食べられるために存在する。ことに果樹は、人間や動物、鳥類に食べられることによってその種子を広い範囲にまくことができ、種の存続ができる。だから“食べられる”ことは必要なのだ。そして食べられるにしても、食べられるときに“痛み”や“苦しみ”は感じないのだ、と私は確信する。
 実際私は、自分で栽培した野菜を収穫して調理し、それを食べるとき、「野菜を殺す」あるいは「野菜は死んでいる」という感覚をもったことはない。むしろ、ベジタリアンの語源のとおり、「命を与える」、「命を授かる」という喜びを感じるのだ。おそらく野菜にとっても……そう思わなければ野菜さえも食べることはできない。そして餓死してしまうだろう。

前掲書、p.221

 おそらく、僕の見立てでは、この著者はなまの野菜を食べているのではなく、命を奪わないことで得られる「観念の野菜」を食べて生きている。野菜が育つまでの命のやり取りを無視し、観念の産物に仕立て上げてしまっている。これでは目の前の野菜を「食べている」とはいえないのではないだろうか。
 この著者は前掲書において、「野菜を煮ると、一緒に煮られた虫が湯に浮かぶことがある。やはり、かわいそうに、と思う」(同、p.224)としたのち、ロシアの作家トルストイの言葉を引き、「トルストイは、しばしば起こるこのような問題について、「人間はまったく他の動物に死を与えずに生きてはいけない。だがこれをあわれむことは出来る。人間の努めは出来るだけ完全無欠に接近することである」と答えている。他の生命を無駄にしないために私たちにできるのは、まず、肉食をしないことなのだ」(同、p.225)と述べている。
 この著者の考えをベジタリアンやヴィーガン一般の考えであるとはおもわない。だが、少なくともこの著者は自分が動物に手を下さないでいることに満足しようとしている。もし過失で奪ってしまった命があればそれを憐れむことはするが、そこで失われた命も自分の糧にして生きるという意志は見えず、自己の完全無欠性に迫るためにただ通り過ぎようとしているように僕にはみえる。僕はこのような生き方を別に否定はしない。ただ、同意はしかねる。僕にはむしろ、次のような考えに親近性をおぼえる。

農耕には狩猟採集にない悦びがあった。農耕の特徴を一言でいえば、作物や家畜との関係の濃厚さだろう。狩猟採集民は動植物を直接育てはしない。対する農耕民は、彼らをまず育ててから食べる。殺すために育てるといってもいい。「かわいい」と「うまそう」という一見両立しない感情が同居する農耕の悪趣味性は刺激的だ。

東千茅『人類堆肥化計画』p.15〜16

 奈良の里山で農耕生活を営む中で書かれた東千茅の『人類堆肥化計画』は、己さえも腐って土に還るものであることを見据えるからこそ際立つ、生の悦びが存分に書き綴られた一冊である。露悪的な書きぶりには目を背けたくなる人もあるかもしれないが、剥き出しの生の悦びを貪りたいのであれば、文化の皮も、腐敗したものにされた蓋も必要ない。ページをめくるたびに、「悪」に封じ込められたものが解き放たれていく快楽がこの本にはある。東は次のようにいう。

 生命をきちんと生命と捉えることも、悦びの追求者にとって有益だ。
 生命の歴史だけをみても、わたしたちはみな四〇億年の結果の一つひとつである。そう思うと、生命を持っているということは只事ではない。今ここに生きているというだけで、あらゆる生物は侵しがたく尊い者たちに見えてくる。しかし、だとすれば、他の生命を殺す他ないわたしたちの生は、同時にとんでもない悪徳としても立ち現れる。つまり、生命をきちんと尊いものと捉えるのならば、その尊い存在たちを害するという格別の悦楽も同時に生じるのである。

前掲書、p.37

 自己を「悪」であると認識する親鸞的態度がまずあり、自己の生を成り立たせているものに格別の敬意を払ったうえで、その命を害することに格別の悦びが生じるのであるという東の態度に、僕は同意する。「わたしは殺していません」と宣うのに比べたら、よっぽど生命に真摯であり、また、己の欲望にも真摯である。どうせ生まれたのだから、この命を楽しみ尽くすしかあるまい。「背徳」というように、いつだって罪と悦楽は背中合わせであるのだから、その罪の気配に慄くほど、悦楽もいや増すのである。

 クリスチャンではない僕が言うのは憚られるが、生きるためには、他の命を奪い続けるしかないことが、人間はおろかすべての生命がもつ原罪といえるだろう。直接殺しはしなくとも、あらゆる生はあらゆる死の上に成り立つ。死臭、腐臭をこの世界から抹消することはできないのだ。ベジタリアンないしヴィーガンはその「奪うこと」に耐えられない者が辿り着く境地であり、また福音であるといえるだろう。だから「観念の野菜」を空想することになり、その肉体からも、生からも遠ざかっていくことになる。
 だが僕は、「観念の野菜」ではなく、他を害した結果であろうとも、その野菜を食べて、生の肉体に変えていこうとおもう。この目で見なければ、自分が手を下さなければ、なかったことにしようとする生き方よりも、進んで自ら手を下しにいく。そのほうが、自分の手が汚れていないかどうかに怯えて暮らすよりも、よっぽど面白そうなんだから仕方ない。ただそれだけの話だ。

関連百汁百菜

今回の一汁一菜

2026/03/10分

ブロッコリー(家採れ)と厚揚げの味噌汁
大根の梅甘酢漬け
京菜と大根漬け
なめ茸

参考文献

・東千茅『人類堆肥化計画』創元社
・鶴田静『宮沢賢治の菜食思想』晶文社
・轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書

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