「ドーナツ」と聞いて、次に思い浮かべるのは何だろうか。「ミスタードーナツ」や「クリスピークリームドーナツ」、近所の個人ドーナツ屋などの販売店を思い浮かべることもあれば、「ケーキドーナツ」、「イーストドーナツ」「クルーラー」といったドーナツの種類を思い浮かべることもあるだろう。「揚げ」か「焼き」かという製法に考えが向かうこともあれば、「カロリー」に連想が向かい、そこから「穴が空いているからカロリーゼロ」→「サンドウィッチマン伊達みきお」へとつながり、「彼が出演しているバラエティ番組」へとさらに展開していくこともあるかもしれない。
「ドーナツ」と聞いて具体的なモノだけでなく、誰かとドーナツを食べた記憶、誰かが好きだった記憶、親が作ってくれた、あるいは自分で作ったときの記憶、逆に買ってもらえなかった、なかなか食べさせてもらえなかった……など、ドーナツにまつわる記憶の方向に連想が展開することもあるだろう。
一つ単語を聞くだけで、あらゆる方向に連想が広がっていく。その広がり方は人によって違うはずだ。そこにその人らしさがあらわれてくる。結局のところ、人の個性なんていうものは、こういった連想ゲームの広げ方のような、つかみどころのないところにあらわれてくるのであって、きわめて方法的で、述語的であるようにおもう。主語で語るのではなく、述語に注目せよと松岡正剛は度々いっていたが、その意味が、ようやくわかってきた。
松岡正剛は『知の編集工学』で、「情報はひとりではいられない」(朝日文庫版、p.44)と喝破した。「ひとつの言葉には周辺領域が広がっていて、そこにはたくさんの似て非なるイメージがぶらさがって」(同、p.30)おり、「ひとつの言葉はつねに別の何かの言葉とつながろうとしている」(同、p.30)のである。言葉は単独で存在できず、つねに周辺の何かとの関係を求めている。
先ほど例に出した「ドーナツ」でこれを考えてみれば、ドーナツの近辺には「パン」「ケーキ」「クッキー」など小麦粉加工食品の存在があり、その形状からは「輪投げ」「UFO」「ドーム」「ライオンのたてがみ」のイメージまで喚起されていく。また、「ドーナツ」という言葉が単独で存在したからといって、何か特定のドーナツの特徴を示しているわけではなく、「甘い」「ふわふわ」「もちもち」「チョコ」「クリーム」「豆腐・おから」などと引っ付いてどんなドーナツなのかわかってくる。どんなドーナツかわかったあとは、どんなシチュエーションでそれを手に入れ、食べたのかという情報がわらわらと湧いてくる。このように、「情報はひとりではいられない」のである。情報が「連想ゲーム」を求めるといってもいい。
AIが台頭してきているなかで、生身の人間らしさがあらわれるのはこの「連想ゲーム」においてであろうとおもう。AIに「ドーナツ」を起点に何回か連想ゲームをしてもらったが、その結果を以下に示す。
ドーナツ ➔ 穴 ➔ ゴルフ ➔ 芝生 ➔ ピクニック ➔ お弁当
ドーナツ ➔ 甘い ➔ 砂糖 ➔ 白 ➔ 雪 ➔ スキー ➔ 山 ➔ 富士山 ➔ 日本 ➔ 侍 ➔ 刀
ドーナツ ➔ 輪っか ➔ 投げ輪 ➔ お祭り ➔ 屋台 ➔ 焼きそば
(Google Geminiを利用)
最終的なゴールを見れば「そうきたか」と思わないでもないが、あくまでドーナツの特徴にだけ注目しており、荒唐無稽さというか、不条理さが一切感じられない、納得感のある連想ゲームになっている。だが、人間には記憶がある。そのひと個人がもつイメージがもたらす、ある種のリープ(跳躍)といったものがあればこそ、生身の人間らしさがあらわれてくる。「なんでそこからその言葉に飛ぶの?」という驚き、虚を突かれた感覚があれば、それが面白さにつながる。
松岡は『知の編集工学』にて、そもそものイメージを喚起するためのプールともいえる〈単語の目録〉から発し、自身の感覚や経験の対応表である〈イメージの辞書〉を通って、「文法」あるいは「使い勝手」ともいえる〈ルールの群〉が、そのような個人の違いを生み出すといっていた。松岡は〈ルールの群〉について「アタマとカラダにまたがる文法」(同、p.35)と書いていたが、これはきわめて示唆的である。AIにはアタマしかない。カラダの伴わない連想ゲームは、「そうきたか」にとどまる。「ええ、そうくるの?」とか「なんでこうなるの?」という連想ゲームはカラダがもたらしてくれる。揚げたてアツアツの自家製ドーナツでやけどしたような記憶、ドーナツの食べ過ぎで夕食が入らなくなって怒られた記憶、狙っていたドーナツをきょうだいに取られて悔しい思いをした記憶……あなたに積み重なっているあらゆる記憶が、AIには生み出せないものを生み出す契機になるかもしれない。
「自分らしさ」はあなたの「連想ゲーム」の方法によって示されていくだろう、とはいったものの、うまくその方法を取り出すのは難しい。意識せぬままにいつもおこなっていることではあるから、わざわざ取り出そうという気になれないし、どう取り出せばいいのかわからない。そこで松岡は「ミメロギア」というゲームを提案する。
「珈琲と紅茶」「時計とメガネ」「山口百恵と松田聖子」といった、一見似ているようで似ていない一対の用語や、あるいは「馬と竹」「サッカーとジッパー」「トヨタと資生堂」といった、およそ関係のなさそうな一対の用語がランダムに並んでいる紙を配る。
参加者はこの紙に「午前の珈琲・午後の紅茶」とか「後で笑う百恵・先に笑う聖子」といった、それぞれの対比ができるだけ強調されるような言葉やフレーズを書き込んでいく。たとえば「スイカとメロン」ならば、「卓袱台のスイカ・テーブルのメロン」とか「田舎のスイカ・都市のメロン」とか「おじさんのスイカ・おばさんのメロン」とかいうように、だ。同、p.42
僕はこのミメロギアゲームと、もうひとつ、一つの単語を別の何かに見立てるゲームとを毎日交互におこなっている。もうすでに1年半ぐらい継続しており、最近体調を崩したときも、これだけは意地で続けた。僕がやるミメロギアゲームは、一日につきお題は一つということにして、その対比が際立つワードを10個以上考えてみることにしている。調子のいいとき、よく知っていることがらについてはボンボン出てくるが、どれだけ捻り出そうとしてもうまく出てこないことがらもあり、お題への理解度、連想力の強さが日々試されている。正直苦しいこともあるが、これはゲームである。とにかく楽しむんだ、と考えることで、なんとか習慣化にこぎつけた。
最近やったミメロギアゲームの中で、自分ではいいのが出たな、とおもうものを下にいくつか挙げてみる。あくまで僕のイメージだから、読者のあなたがピンと来るとは限らないが、とりあえず見てみてほしい。
「空手ドーナツ・柔道パン」
「宝箱トレーディングカードゲーム・玉手箱デジタルカードゲーム」
「象徴のタイ・代表のマグロ」
「ざるそばの文脈・文字通りかけそば」
「わたしらしさサーティーワンアイスクリーム・あなたらしさセブンティーンアイス」
毎日のようにやっていれば、どんなワードが自分から出てきやすいか、どんなお題なら出やすくて、どんなお題なら難産になるかというのが見えてくる。自分の語彙では触れることのなさそうな領域がありそうだというのが、ぼんやりながらも浮かんできたりもする。ぜひミメロギアゲームを補助線にして「自分らしさ」を探ってみてほしい。そして、やればやるほど、「自分らしさ」というのはいかにつかみどころがなく、無限に(といっても生きている限りだが)探究と発見が続くものであるかを知ることになるだろう。

関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/17分
鮭フレーク・キャベツの焼き飯
ほうれん草・わかめ・にんじんの味噌汁
参考文献
・松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫







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