一人の紳士がヤッ とビルの上に躍り出て、手にしたステッキを振り回したら、空に浮かぶ三日月の欠けた部分がみるみるうちに光を湛え、すっかり満月になってしまった。それからというもの、月はいつも同じ顔を僕らに見せるようになった。
欠けなくなったのは月だけじゃない。せんべいやおかきの類に豆腐の角はいつも完璧な姿を保つようになったし、不ぞろいのバウムクーヘンは寸分違わぬバウムクーヘンとなって売り場に整列するようになった。ぶつけてふちが欠けたうつわも折れた前歯も元通り。「アウトレット品」なんてものも生まれなくなって、世界のうちから、〈欠けたもの〉がだんだんとなくなりつつあった。
紳士は街の大通りから一本それた通りの、そのまたはずれにある雑居ビルにひっそりと事務所を構えて、日々持ち込まれる〈欠けたもの〉にステッキを振るっていた。うわさを聞きつけた人たちが、次々と〈欠けたもの〉を持ち込んで直してほしいと依頼してくるのである。思い出の品、コレクション品、性格、品位、デリカシー……この世界のありとあらゆる〈欠けたもの〉が持ち込まれては、紳士のステッキの一振りがみせる奇跡に、依頼者たちはみな満足して帰っていった。
紳士が求める報酬はそれなりに高額で、大都市に勤めるサラリーマンの昼ごはんが、半年ぐらいはパンの耳になるぐらいは要求される。それでも毎日のように依頼者はやってくる。紳士は最初、世の中に自分の力を広めるためとおもって、タダでステッキを振るっていたのだけれど、〈欠けたもの〉をどうにかしたいという人が殺到したので、それなりに高額な報酬を取ることにしたのだ。
紳士は、高額な報酬を設定して人を選ばねばならないほど、〈欠けたもの〉をどうにかしたい人がこの世界には多いことにおどろいた。けれども、夜な夜な自分から街に繰り出さなくても、向こうから〈欠けたもの〉が集まってくるのは紳士にとって好都合ではあった。
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「今日はどんなご依頼で」
「はい、ワタシはどうも片付けができないようで、部屋がこんな感じで散らかっているんです」と、依頼者の女性はスマホで自分の部屋の写真を紳士に見せた。
「はあ、見たところ、足の踏み場もありますし、生活感のある部屋とはこんなものかと思いますがね」
「それでもワタシ、片付けができるようにならないといけないんです」
「どうしてそこまでこだわるのですか」
「会社ではワタシ、完璧に仕事をこなすことで通っていますし、プライベートでも、最近付き合い始めた彼の前では完璧でありたいんです」
「私としてはまったく構わないことなのですが、本当にあなたはそれでよろしいのですか?今すぐ家に帰って片付ければよい話であって、正直、いただくお値段と釣り合っていないとおもうのですが」
「いえ、一度片付けても、すぐ元通りになってしまうのがワタシなんです。1週間と片付けた部屋がもたないのです。来週には彼を家に招くことが決まってしまっているんです。ワタシは待ってと言ったのですが、彼に押し切られてしまって……。もう後には引けないと決心してきましたから、どうぞよろしくお願いします」
と、依頼者の女性は封筒を差し出した。
「本当によろしいのですね?」
「はい。ひと思いにやってください」
「では」——紳士は立ち上がり、依頼者の女性に向かってステッキを振るった。
*****
「さて、ご用件をお伺いしましょう」
「会社に言われて、僕のうっかりミスの癖を直してくるよう言われてきました」
「会社から、ですか」
「はい。僕、あと少しってところで、いつもミスをしてしまうんです。それがあまりにも積み重なって、上司にはすっかり愛想を尽かされてしまって」
「どんなミスかは存じかねますけど、会社に言われてここに来たというのはどうも引っかかりますね」
「うちの会社は最近、業績が芳しくなくて、おまえのようなミスばかりの人間を養ってられるほどの余裕はない、ということらしいです。そこで人事部のほうから、こちらを紹介されました」
「料金は誰が出すのです」
「僕の自腹で、ということです。いえ、いいんです。僕がうっかりミスをするから悪いんですし、ここでその欠点がなくなってしまえば、これからの人生、うんとよくなるとおもうので」
「そういうことならお受けできませんな。あなた一人が完璧な働きをしたからといって、あなたの会社がよくなるというわけではないでしょう。それに、あなた一人をよこすのではなく、会社全体として私の施術を受けに来るのが筋というものでしょう」
「いや、でも……お金は用意してきました、ほら!」
「いいえ、受け取れませんな」
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「またいらっしゃったのですか」
「片付けがすっかりできるようになったはいいものの、今度は字が汚いのが気になって」
「今はデジタルの時代でしょう、もう手書きの字が汚くとも構わないのではないですか」
「それでも、いざという時、たとえば婚姻届なんかで字が汚かったら、彼に幻滅されるとおもって」
「ここで今あなたの字の汚いという欠点を取り除いたとして、次は何をお求めになるのかな」
紳士は大きくため息をついた。「今日のところはもうお引き取りください」
*****
紳士は、世界から〈欠けたもの〉を奪って、完璧に近づけることができれば、より世界はよくなるとおもっていた。最初に月の欠けを奪ってみせたのは、世間の耳目を集めるためというのもあるが、いつも月が綺麗に見えていれば、みんな喜ぶだろうとおもったからである。だけど、つねに満月となった月を誰も見上げなくなり、話題にもしなくなった。月にまつわる風物詩は消え、世の歌からも「三日月」「下弦の月」なんて言葉はことごとく消えてしまった。
紳士はあまり大きなことはやらないほうがいいだろうと悟って、街の片隅で市井の人を相手に少しずつ〈欠けたもの〉を奪っていくことにした。最初は、欠けてしまった大切な皿を直してやると喜ぶ依頼者の顔を見て、紳士も満足していた。しかし、ある時から、持ち込まれる〈欠けたもの〉が、依頼者の自分勝手でなものになりはじめた。また、誰かの都合で欠点を無くしてくるように指示された依頼者も現れはじめた。
紳士は、自分が振るう力が、けっして人々を幸せにはしないことに気づきはじめた。金さえ払えば何をしたってよいと考えている人の多さには、もうすっかりうんざりしている。この力をこのように振るっていてよいのか。
紳士は最後に二度、ステッキを振るおうとした。一度目は、この世界の〈欠けたもの〉をそのままそっくり奪ってしまうためである。そして二度目は……。しかし、その必要はないとわかると、どこかへ行方をくらました。
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2026/03/16分
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