関西ローカルのとある夕方の情報番組では、番組が変わっても続いている名物コーナーがある。僕が小学生の頃にはもうあったはずだから、20年以上続いているはずだ。そのコーナーはマイナーチェンジを続けていて、もはや原型はとどめていないものの、一貫しているのは「怒りのニュース」を取り上げて、その憤懣を視聴者と共有しようとするものである。昔は不条理、理不尽に巻き込まれてしまい、遣る瀬のない市民の怒りをテレビ局が取り上げることで、問題の解決はできなくとも、わずかなりともその被害者の怒りを解消できているのではないか、という意義も感じられたのだが、最近では街頭インタビューで怒っている人の意見ばかり取り上げて、安直で陳腐な怒りの共有コーナーと堕してしまった。昔ならば、このコーナーで取り上げられた不条理に出くわした市民に同情でき、また共に怒ることもできていたのだが、今のそのコーナーは、ただただ「しょうもない」の一言に尽きる。
今のトレンドは社会的意義を問うことよりも、怒りの共有なのである。もはや僕たちは、いつも何かにつけて怒らされているといってもいい。芸能人の不祥事、外国人犯罪、政治家の失言、倫理観・道徳観の欠如したSNSユーザーの投稿etc……どこぞの市議が失言しようが、不倫しようが、関係あるのはその自治体の市民であって、よその人間が口出しするようなことではない。そんなどうでもいいニュースばかりなのにも関わらず、人はそれを見かけるとついつい怒ってしまう。それらのすべてに怒ったり、人間性がどうたらと言えるほど、自分だって大した人間でもないくせに。
どうして自分に関係のないような「怒らされている」ニュースを見たときでも、人は義憤を燃やして真剣に怒れるのだろうか。こんな様子を見ていれば、冷めてしまう人が出てきても仕方ない。僕だって、例の怒りのニュース共有コーナーにはすっかり冷めてしまった。「怒らされている」のが見え見えだからだ。怒りのニュースは人々の注目を集め、スマホないしテレビの画面に僕らを釘付けにする。そうしてスクリーンタイムを稼ぎ、見せたい投稿や広告を僕らの目に触れさせる。ああ、なんてしょうもない。
アテンション・エコノミーのしょうもなさは、やがてそのメディアの只中で怒りを燃やしたり、真剣に何か言っている人たちへと波及し、彼らの姿までもがしょうもなく見えてきてしまう。どうしたって誰かの、何かの掌の上で転がされているだけなんだから、熱くなったってムダムダムダ……。どうしたって何も変えられない無力感、一部銘柄の株価が上がるだけで一向によくならない生活。怒りの操縦だけでなく、何もかもが自分で動かせずに、誰かに転がされている世界にあっては、熱くなるよりも冷めてしまったほうが、ずっと生きやすい。
かつては人が冷めきってしまわないように、宗教が救いを示し、国家が生きる指針を示していたはずだが、これらはもはや機能していない。すっかり企業が人々の意欲を掌握してしまったからである。このあたりは前回に書いておいた。前回で忘れていたことを少し書き足しておくと、宗教の代わりを今は「推し」が埋めているといえる。
推しの活躍、推しの一挙手一投足に人々は熱狂し、陶酔し、推しのためならあらゆるお布施をするし、周囲に布教だってする。推し活をしている人の心の中には推しが住まいつつも、彼我の距離は隔たっていて、決して推しと自身が同化してはならないと考えていると聞いたことがあるが、そこにある関係性はもはや帰依ではないか。そして、祭壇を作って推しを祀るという行為はもはや比喩でもなんでもなく、直球で推し活が宗教性を帯びている証左である。太字で強調しておいたように、推しのまわりには宗教的ワードが乱舞している。だが、問題はその「推し」が企業によって作られているという点であろう。
企業は人が冷めてしまおうが責任を取ろうとしない。宗教や国家のようにモラルを重んじない。何よりも優先されるのは資本の増殖であって、それについてこれずに冷めてしまった人は、もはや客ではないと見捨ててしまう。将来的に客が減ってしまうことなんてお構いなし。とにかく今の増収増益が大事なのであって、未来の顧客を育てようだなんて考えていないのは、とあるテーマパークや一部の外食チェーンを見ていればわかることである。
誰も何もしてくれないのなら、このままずっと冷め続けているのがいいということになりかねないが、それではあっという間に寿命を迎えてしまう。そうでなくとも、人には年代ごとにできることできないことがあって、だんだんできないことが増えていくのだから、冷めたままいたずらに時を過ごすのはとても大きい損失のようにおもえる。
それでも冷めるのをやめられないのは、そもそも「冷める」「冷笑」というのは自身を守るための鎧だからである。こうでもしないと生きていけないし、自分を保っていられないのだ。熱くなることの意義を見いだせない世の中において、冷めていたほうが、ずっと効率的で、合理的で、堅実で、賢い選択のようにおもえる。
人にはそうやって自分の身の回りをすっかり何かで覆い固めて、その中でじっと耐える時期というのは必要なものである。だが、そうやっていつまでもじっと耐え続けて、なにかよくなる方向に社会が動いてくれるのだろうか?僕はそうおもえない。とてもこの世の中が「よくなる」だなんておもえない中、待っていたってしょうがない。
だから僕は「さめる」と一口にいっても「冷める」よりは「覚める」ないし「醒める」ほうが人生面白いんじゃない?と友人の前でも言ったりしているのだが、まあ、なかなか理解はされていないようにおもえる。どうも友人の「冷める」と僕の「覚める」は同じ「さめる」でも何かが違うのだ。ここからはそんな「冷める」じゃなくて、「覚める」ほうに動く人がいたらいいな、という願望込みで、「覚める」とはどんな生き方かを書いてみたいとおもう。
まず、「冷める」ほうの生き方にはざっと次のような特徴があるようにおもう。
・熱くならないのは自己防衛
・報われない努力は最初からしない
・熱くなっている人に冷や水を浴びせる。それで仮にうまくいっている人がいたら嫉妬する
・何をやってもムダ
・依拠する価値観の変容がない。社会と価値観を共有しているからこそ冷めている
・スタティック。静止状態にいて、変化を好まない、受け入れない
では、「覚める」ほうの生き方はどうか。
・守るよりも攻めに転じる。転がり続けるしかないとおもっている
・報われるかどうか知らないけどとりあえずやってみる
・熱くなっている人を見ても、関心領域以外なら正直どうでもよかったりする。また、うまくいっている人を見ても別に嫉妬しない。その人と自分は別の価値観で動いているから
・何をやってもムダなのは知った上でムダを愛する
・依拠する価値観は一度崩壊していて、自分で新たに立てたもの、ないし、一般的に社会で共有されている価値観とは別に、自分に合う価値観を見つけている
・ダイナミック。自分が動いていけば、世界の見方も変容する
一度「さめた」人はともに、虚飾のはがれた世界を見て、「しょうもなさ」に気づいて、これまで熱っぽくなっていたものから解き放たれているものの、その後の世界に対する態度がまるで違う。「冷めた」人の生き方をざっと言ってしまえば、じっと動かずに旧来の価値観を保存したまんま自分の身を守っているのであるが、「覚めた」人はこれまで依拠していた価値観をぶっ壊して、自分の軸を立てている。その上で、自分がすでに他者によって状況に投げ込まれており、身を守ったところで仕方ないと気づいている。すでに賽は投げられてしまったのだから、もう転がり続けるしかないとおもっている。
僕がおもうに、「冷めた」人は何かにすっかり期待してしまっているのではないか。だから、状況が好転し、すっかりよくなるまではじっと殻にこもって耐え忍ぼうとおもっている。何かに期待していないふりをしながら、その実すっかり期待していて、それが裏切られたからひどく傷ついている……。そしてその期待感は口には出さないものの、ずっと持ち続けているのだ。僕は「冷めた」と言っている人と話していると、どうもその期待感が滲み出てしまっているのが見える。本当はまだ諦めていないのである。
一方、「覚めた」人はもはや何も期待していない。誰かが自分の期待通りに動いてくれるだなんておもっていないし、誰かの期待を満たすことも考えてない。ちなみに、「推し」に帰依するようなこともない。なぜなら推しにだって期待をかけたりしないからである。その根底には絶望があって、何もかもに意味がないことを知っている。だからこそ、好きに生きることができる。どうせ無意味なのであればそれは勇気に変わり、世界を存分に遊び、楽しんでやろうという気概が生まれる。報われない努力がムダだと考えるのは、その努力が報われることを期待しているからだ。「覚めた」人間はそんなこと考えない。どうせムダなんだから、せめて愛そうとおもっている。否、愛することでしかムダを擁護できないのである。
結局、「覚めた」人間は愛に生きることになる。何もかもムダなのだから、せめて愛することによって丁寧に拾い集めていく。何かクサいことを言っているように見えるかもしれないけれど、これは全く冗談ではない。非合理を乗り越えるには、それでもただ好きなんだ、面白いからいいんだ、という愛しか手段はないのだ。
とまあ、こんな感じだから、全く説得力を持たないのである。客観的で合理的で、スマートな解決策をお求めの現代人にはこういった「愛」を持ち出しても響きようがない。彼らは本当に自分が客観的で合理的に生きていると信じ(ようとし)ているからだ。養老孟司や成田悠輔は「タイパ・コスパ云々追求するのならば、死ぬのが一番コスパ・タイパがいい」と言っているが、彼らは結局人間そのものが非効率で、非合理のかたまりであることを知っているのだ。言葉尻だけつかまえて「他人に死ねって言ってるのか」と噛みついているような人間よりも、よほど人間愛に満ちているようにすらおもえる。
この世がいかにしょうもなかろうが、それでも生きていくしかないのであれば、せめて身の回りのものを愛して生きていくのがいい。究極的に、自分という存在そのものがしょうもないとおもえるだろうが、それを受け入れたとき、とてつもない力になる。
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今回の一汁一菜

2026/04/03分
キャベツ・にんじん・卵の味噌汁
大根の醤油漬け
めかぶ
なめ茸








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