少し前に友人たちと連れ立って福井県に日帰り旅行に行った。個人的目玉は東尋坊。まさに自然の芸術ともいえる柱状節理の切り立った崖を、なんの柵も網もなく海の間近まで行って見られるとあっては、やはり期待せずにはいられなかった。いざ到着してみれば店も客も活気にあふれ、どこまで行けるか競うように崖の端までいく若者たちは生のエネルギーに満ち溢れており、ここが「名所」であることは忘れてしまうほどであった。

靴が少し滑るし、カバンを持っていたから崖の先っちょのほうまで行くのは断念したが、僕も一応怖いもの見たさで崖から海を見下ろしてみようと、谷のようになったところに行ってみた。そこは陸に近いから先端に行くよりも海との落差があり、また別種の怖さがある。これで足を滑らせたりしたら一巻の終わりだが、なんの支えもない高いところから海を見下ろしてみる好奇心には代えられない。身体を安定して支えられそうなギリギリを攻め、崖の上から海を見下ろしてみた。すると、胸の奥がキュッと締めつけられると同時に、一瞬海に吸い込まれるような心地がした。いや、心のほうは一瞬海に落ちようとしてこの身を飛び出したのだが、それはいけないと身体のほうが引き戻した、そんな感覚だった。

僕はその日友人と来ていて、また精神状態も安定していたから崖の上に心を引き戻すことができた。しかし、この世に引き戻してくれるものを持たない人がこの位置から海を覗き込めばどうなるかわかったものではない。東尋坊にはそうした「危なそうな人」を見守る人が何人か配置されているらしく、確かにそれっぽい人が何人か目を光らせている。たいてい東尋坊にやってくるのは絶景目当ての観光客だが、その中に紛れた「危なそうな人」を見かけると声をかけて引き留めるのだそうだ。帰りの電車賃すら持たないまさに片道切符の人もいて、そうした人には帰りの電車賃を渡して引き返させるということもあるという。
こうした制止を振り切って本懐を遂げてしまうような人も中にはいるだろうが、思いとどまって引き返していく人も多いという。このように、まさに瀬戸際で差し伸べられた手ならば人は掴まずにはいられない。四の五の言っていられない状況だから、あれこれ考えていられない。掴んだあとのことなんてどうでもいい。とにかく、今助かることが大事なのだ。しかし、これが日常、あるいは差し迫った危機のない中で差し伸べられた手だった場合、人はその手を掴むことができるのだろうか。
すぐに破局的危機を迎えるわけではないものの、気分が落ち込んでしまっているとき、行き詰まっているときに差し伸べられた手を人は素直に掴めない。手を差し伸べられた側はこうしたとき、手を差し伸べてきた側との彼我の差、力の不均衡には敏いものである。自分を憐れんで手を差し伸べてくるのか、また弱っているところにつけ込んでなにか利用しようとしているのか、はたまた、本当に助けようとしているのか……。心が弱っているというのもあってか、なかなか純粋に助けてもらえるとは思えない。むしろ、憐れみの目で見られている自分を突きつけられることによって、自己嫌悪を強めることもある。どうしたって自分が下に置かれていて、相手が上にいるのだ。こんな状況、耐えられたものではない。
公共交通機関などで席を譲られた側が「私がそんなふうに見えるのか」と怒り出すようなことがある。最近は年を取っても矍鑠とした人が多く、見かけだけで判断して安易に席を譲るとこうしたトラブルを引き起こしかねない。席を譲られた側は「まだまだ自分は助けられるほど弱っていない」という自己認識と、「助けられる立場のように見られてしまった」という他者からの認識とのギャップに戸惑い、それがしばしば怒りとなって顕れる。いくつになっても、また、本当に弱ってしまっていたとしても、人は下に見られることに耐えられない。差し伸べられた手を素直に掴むことはなかなかできない。
では、手を差し伸べる側はどう思っているのか。本当に助けようと思っている人も中にはいるだろうけれど、「助けてやっている」と考えている人間もいる。自分が上に立ち、自分の正しさを他者の救済によって示そうとしている人間だ。僕が新卒で入った会社を辞めてさすがに参っていた時期、知り合いのルートを辿って、手を差し伸べてきた人がいた。別に僕はほかにやりたいこともなかったから、その手をとりあえず掴んでみた。が、フタを開けてみれば完全にナメられていたと分かった。僕の目の前で「俺のやり方に染め上げていきたい」と言ってくるような始末である。逆にその人を利用してビジネスのやり方を叩き込んでもらい、高みを目指す選択肢もあっただろうが、僕の心は激しく抵抗して、結局今のような、本を読み耽り、野菜を育ててブログを書くような人間へと落ち着いていった(今こうして振り返ってみると生意気な小僧にもほどがある。今も変わっていないとおもうけど)。
この件に関して、僕は別に悪意を持って手を差し伸べられたとはおもっていない。目的の純粋さに関しても問う気はない。不純であっても助かればそれでいい、という見方もある。目的が高潔だとか純粋だから価値があるともおもえない。だいたい、こうして人が手を差し伸べてくるにあたって何か目的があるのは当たり前のことであり、むしろ、何の目的もなく差し伸べられる手は不気味である。神でさえ、救う人間を選ぼうとしているのだ。救いの手に、差し伸べる側のエゴイズムがないものなどありえない。
ただ、差し伸べる側にとって大事なのは深追いしないことである。断られても、振り払われても気にしない。上から救いの手を差し伸べたというだけで、(実際に暴力に訴えていなかったとしても)差し伸べられた側にとってがそれが暴力的に見えてしまう場合がある。こうなってはもうどうしようもない。あとは掴む側の問題なのである。
僕は結局途中でその手を離したけれど、一応、落下することは避けられた上で、別の道を探す手がかりになった。結局僕の考え方は新自由主義的考え、能力主義的考えにはそぐわないことが骨に刻まれたのである。こうして話のネタにもなっているし、悪いことばかりではなかったとおもっている。
また、僕が差し伸べた手が掴まれなかったこともある。けど、それを振り払って相手が自身の道をゆくのであれば僕はそれ以上なにもすることはない。ひどい言い方をすれば「もう知らん」のだけど、振り払った側としても追っかけて来られたって困るわけだから、もう互いの道は交わらないものとして生きていくのがいい……よね? いや、中にはそれでも追っかけて来て欲しいという人もいるんだろうけど、それは管轄外ということで。来るもの拒まず、去るもの追わずでやらせてもらってます。
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