0103 見つめ合うゴリラ、話し合う人間

百汁百菜

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 たいていの揉め事は話し合えば解決できると考えている人は多いだろうが、その話し合いとして想定されているのが、「一方的な意見の押し付け」になっているケースもまた多く見られる。人が「話し合おう」というとき、それはだいたい相手の意見を聞きたいのではなく、自分の意見を聞かせて、納得させたいという意識がたっぷりと練り込まれている。
 一方、ゴリラは言葉を持たないから話し合うことはない。では代わりになにをするかといえば、「見つめ合う」のである。霊長類学者で人類学者の山極寿一やまぎわじゅいちは、サルとゴリラの違いについて次のようにいう。

山極 僕はゴリラの調査をする前に、ニホンザルの調査をしていたんですが、サルが相手の顔を見つめるのは軽い威嚇なんです。サルは弱い方が身を引くことによって喧嘩を避けていますから、見つめた相手を見返すと、挑戦を受けて立つことになるわけです。だからゴリラの場合も目を避けるのが礼儀と思っていたわけね。ところがそうじゃなかったんですよ。遊びに誘うとき、交尾をするとき、お母さんが子どもに言うことを聞かせるとき、喧嘩のあとに仲直りするとき、つまり自分が相手に入り込んで、相手を操作しようとするときに、必ずのぞきこみ行動が起こるんですよ。

山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』p.30-31 新潮社

 この本の中では、オスのゴリラ同士が喧嘩になってしまったときに、また別のオスが入ってきて、それぞれの顔をのぞきこんで喧嘩を収めるという例が挙げられていた。これがもし、言葉によるコミュニケーションだったらどうなるだろう。もちろん、仲裁に入った一人が「この喧嘩、俺が預かった」といってその場を収めるということもあるだろうが、仲裁に入った双方の言い分を聞いたうえで、仲裁者が理のあるほうの肩を持ってしまうというようなこともありえるだろう。言葉のやり取りでは勝ち負けができてしまう恐れがある。弁の立つほうが有利になる。ゴリラはこれを、言葉を使わずに相手の顔をのぞきこみ、見つめ合うコミュニケーションによって解決する。

 人は言葉を得たことによって、自らの経験だけでなく、過去の教訓、未来の展望まで語れるようになった。言葉を伝えることによって経験を共有し、気持ちを表現し、詳細な指示を飛ばせるようにもなった。そして、「今ここにないものを語れる」ようにもなった。
 先に述べたような過去の教訓も、未来の展望もまさに「今ここにない」ものであるし、留守にしている人、しばらく会っていない人のことを語ってその人のことを忘れないようにすることだってできるようになった(これはサルにはできないことだ)。比喩を用い、表現したいものと似ているものを使って「今ここにないもの」も語れるようにもなった。ついにはそうした言葉を駆使して神や数学、宇宙まで語れるようになった。人は実体のないものでも、自分が体験していないことでも、自分の身から遠く離れていることでも言葉の力を用いて語ることができる。そしてそれを記録媒体に残すことによって、身内を超えた次の世代に伝達することだってできる。人は言葉の力によって、自らの力をはるかに超えたものをその手に収めてきた。
 これを進化と言わずしてなんと言おう。言葉を自在に駆使し、種々の観念・概念を見事に操り、頭に浮かんだものを思い通りに動かすことができるほどの力を手に入れたのだ。人と人のあいだで多少意見がぶつかろうとも、その言葉を駆使した「話し合い」によって解決できる。言葉の魔法があれば、きっとうまくいく……。そのように信じている人も多いはずだ。だが、世の中を見渡せば決してそんなことないとわかる。言葉で解決するならば世の中に殺人も戦争もレイプもずっと少ないはずだし、誹謗中傷やいわゆる「レスバ」、思想対立なんてものは世の中にないはずだ。
 人はむしろ言葉があるからすれ違う。そのすれ違いの根本にあるのはきっと、言葉の力への信頼なのだろう。言葉の力を信じるからこそ、ちゃんと伝えれば相手の心に届くはずだと思い込んでしまう。なのに、言葉を尽くしても届かない、相手が納得してくれないとなれば、それは相手への怒りや失望に変わっていく。

 ただ、人間においても、言葉を使わずに「見つめ合う」「のぞきこむ」だけのコミュニケーションが成り立つ関係が二つあるという。

山極 ……さっき、のぞきこみと言いましたが、人間はゴリラのように顔を近づけない。でも、近づける場合が二つだけあることに気づきました。どういう場合だと思いますか?
小川 赤ちゃんの寝顔をのぞきこむときとか。
山極 うん。お母さんと、まだ言葉をしゃべらない赤ちゃん。
小川 あ、言葉がない状態のときですね。
山極 言葉をしゃべらなくてもいい間柄。もう一つ、これも言葉がいらない間柄があります。
小川 愛し合っている者同士、ですか。

山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』p.40

 愛し合うもの同士の間には、もはや言葉なんていらないと聞けば、もうそれはロマンティックが止まらない状態になるものであるが、赤ちゃんと保育者の間でも言葉は必要ないのである。というか言葉を使えない。言葉がないからこそ、表情の機微を探るようになるし、だんだんと泣き方やタイミングで何を表現したいのかがわかるようになってくる。しかし、言葉を覚えてしまったらそれに頼ってしまうから、こうした機微を見逃すようになってしまうのではないか。このことについて、山極は「言語の獲得というのは、おそらく人間の進化の中でもとても新しいできごとだから、まだ安っぽいんですよ」(前掲書、p.41)ときっぱりいう。むしろ、「対面して見つめ合うのは、おそらく起源が古くて、気持ちを通じ合わせながら心を共有できるコミュニケーションなんだろうと思うんです」(同)と、ゴリラ式コミュニケーションの優位性すら説くのである。
 そうした「安っぽい」言葉によるコミュニケーションの形態が現れる前の赤ちゃんの状態を老子は重んじた。赤ちゃんはまだ自他の区別もついておらず、自分の手すらも、世界に突然あらわれた存在のように感じられているのだ。ものを区別せず、分別しないこの赤ちゃんの状態こそ、本来あるべき姿であると考えられており、大人になって言葉を得てしまったら、そうした世界の見方は失われてしまうのである。まさに言葉こそ、あれとこれに名前をつけて、ものを分別してしまう刀にほかならないからだ。
 鈴木大拙は『日本的霊性』において、「大人は子供になってはならぬ。ただし、子供の心を持たなくてはならぬ。一人前の大人として理智を十分に備え、いろいろの感情も十分に備えていて、しかもそこに赤児の無功徳性(引用注:見返りをもとめないこと)、非合目的性をもたなくてはならぬ」(『日本的霊性 完全版』p.348)と、赤ちゃんの心に戻る「嬰孩行えいがいぎょう」によって人間性が完成するといった。
 ただし、「理窟りくつは十分にいわなくてはならぬ。感情は豊富でなくてはならぬ。豊富な感情と、盤根錯節ばんこんさくせつを切り開く理智分別をもちながら、しかもその奥に嬰孩性、すなわち無功徳なものを、深く蔵していなくてはならぬ」(同)との断りがある。深く入り組んだ問題を切り開く理智分別はやはり言葉の力によってもたらされるところがあるのだろう。だが、それに頼りきっていればいずれ「うまくやってやろう」だとか「これを解決しても旨みがないからやめておこう」といった人間のさかしらが生まれてくる。一旦言葉を忘れ、見つめ合うことになれば、そんなさかしらの入る余地はない。そこにはあなたとわたししかいないからだ。
 
 しかし、やっぱり人間同士が見つめ合うとなれば、小っ恥ずかしくてありゃしない。人類誰もが愛し合う関係性にはないのだから、やっぱり言葉によるコミュニケーションをとりたくなる。なぜ人間同士になると見つめ合えないのか。その原因のひとつは、他の類人猿とは違う身体的特徴にあるという。

山極 ……サルや類人猿の目と比べると、人間の目だけ違う、それは横長で白目があることなんです。だから、目がちょっと動いただけでもその動きをモニターできる。それで相手の心の動きを捉えていて、これができないと、たぶん会話することができないと思うんです。
(中略)
相手をじっと見つめるのは威嚇になるからサルはできない。でもゴリラにはできる。ただ、白目の動きを察知するために互いにある程度離れないといけない。だから逆に、言葉が生まれたのは、この距離を保つためなのかもしれないなと僕は思うんです。意味が最初ではなくて向き合うことが重要だった。でも、じっと黙って目を見つめ合っていたら気味悪いじゃないですか。だから音声を発し合いながら……。
小川 間を持たせながら、相手のこの白目に浮かんだ虹彩を見ていると。

山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』p.41

 目は口ほどに物を言うというが、まさにそれは人間の目に白目があるせいだったといえよう。今どこを見ているのか、なぜ目を逸らすのか、やましい事情があるからなのか、じっと見ているのは何かわたしに変なところがあるからなのか……。
 人間の目はあまりにも雄弁すぎて、近くで見つめ合うことに耐えられないのである。見つめ合っているうちに相手の考えが気になって気になって仕方ないし、相手があさっての方向をむいてしまったら、一体なにがその視線の先にあるのか確かめたくなる。こうして、人は言葉を使うことで距離を調整するようになったというわけである。距離をとって、相手の目の動きを見て、言葉でコミュニケーションを取る。次第にそちらのほうが優勢になり、見つめ合えるのは愛するもの同士と、赤ちゃんと保育者だけの関係になってしまった。それ以外の関係性においては言葉を使うほかない。言葉への過剰な信頼もそうして育っていったのだろう。
 言葉は通じるものであるいう信念がある以上、人はつい期待をしてしまう。だが、その言葉が届かなかったり、裏切られたりすると深い失望感におそわれる。見つめ合うコミュニケーションならば、目が合えばそれでよし、目を逸らされたらそれで終わりときっぱりしている。そりゃあ、当然目が合うのがいいに決まっているけれど、目を逸らされてしまったのならそれ以上何もしようがない。「説得」することなんてできないのだから。そういう意味でも、やはり野生はすっぱりきっぱりしていて気持ちのよいところがある。まあ、そうして人間界でもすっぱりきっぱりしていると、周りに人はいなくなってしまうのかもしれないけれど……。

 ただ、われわれ日本人(だけじゃないだろうが)にとって喜ぶべき言葉の効用がある。それは、味覚はきっと言葉によって育てられたのだろう、ということだ。

山極 しかも、味覚ほど共有しがたいものはないんですよ。僕らは味覚を言葉で表現して、やっと納得しますよね。例えばさっきのトビウオのつけ揚げ。「なんかこれ、普通のさつま揚げと違いますね。ちょっとムチムチしています」と言うと、「お、そうだよね」と気持ちが通じ合うんだけど、言葉がなかったら表現しようがない。
小川 その相手が、どういう気持ちで食べているのかを確認しあえないということですね?
山極 そう、われわれは情報を食べているわけです。情報がないと、人はおいしさというものを共有できない。例えば、目で見るものの場合、人間は眼球に白目があるので、どこを見ているか視線を特定できます。「あれ」と言って目で指し示せば見えているものを共有できます。
小川 たしかに、そうですね。食べ物の場合はそうはいかないんですね。
(中略)
山極 ですから、味が多彩になったのは、われわれが言葉というものを情報として交換できるようになったからではないかと僕は思っているんです。

山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』p.179〜180

表情や指差しだけでは、そのものの「おいしさ」は共有できない。見つめ合ったって、たぶん「おいしいね」ぐらいのものは通じるかもしれないけれど、どうおいしいのか、どんな味なのかまではわからない。おいしいものを共有することは信頼関係を育てることでもある中で、みんなにその「おいしさ」を共有しようとする気持ちが、言葉となって「おいしさ」を作り出したのである。今のわれわれが口にする美味佳肴はまさに言葉の力によって育てられたといえよう。まあ、最近はおいしさの表現が「神」とか「極み」とか「ヤバい」とか「背徳感」とかになって平板化しているといううらみもあるのだが。

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2026/05/06分

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参考文献

・鈴木大拙『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫
・山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』新潮社

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