「生きている意味がわからないんです」
という人に、
「ああ、誰しも人生なんてものに意味はないんで好きに生きればいいですよ」
なんて言っても聞いてもらえるはずがない。また、
「なんで周りの人は僕がこんなに頑張っているのに応えてくれないんでしょう」
という人に、
「あなただって私たちの期待に応えているとは限らないでしょう」
なんて言ってもヘソを曲げられるだけであるし、また、
「周りにどう思われているのか気になって仕方なくて、一人で外食もできないんです」
という人に、
「あなたのことなんて誰も気にしてませんよ」
なんて言っても、「私が気になるんです!」と反駁されるだけだろう。
このように、いきなり本質にグッと迫ったり、急所を突くようなものの言い方はたいてい効力がない。医師やカウンセラー、あるいは占い師なんかに言われたら「はあ、そうなんですか」となるかもしれないが、友人、知人間でのこのようなやり取りはもっと効力がない。
であるにもかかわらず、僕はどうしても言いたくなってしまう。僕はそう言われることのほうが好ましいとおもっているからというのもあれば、さっさと解決して次に進んだほうがいいのではないかとおもってしまうからである。でも、このようなことを漏らす人にとって、これらは積年の課題であり、今日明日でコロっと認知を変えられるようなものではなく、じっくり取り組まないといけないような課題なのである。
どこかの知らない誰かが書いている、言っていることならば、一定の距離感をもって受け止められるであろうが、知己からこのようなことを突きつけられてしまったときの、その衝撃はいかばかりか。ここ数年の僕の課題は、ついつい本質、ないし急所を突いてしまうようなことを、いかに迂遠な物言いで、かつ身近に始められるような行動、習慣のことから話せるか、ということである。
このへんの問題は、もう僕にとっては終わった問題なのであって、ついつい「僕はこうしてますけど」と言ってしまうものだが、こんなものいきなり突きつけられたとしても、聞いている側からすれば青天の霹靂、藪から棒なのであって、到底飲み下せるものではなく、ただ自身の考えが否定されたという思いと、そんな考え自分には無理だという思いに萎縮したり、怒り、失望が込み上げてきてしまうだろう。剣呑な雰囲気になったことは一度や二度ではない。あとになって、「あのとき言っていたのはそういうことか」と納得してくれることもあるかもしれないが、それには言った側が「そんなこと言ったっけ」と忘れてしまうほどの時間を要するだろう。
この手の問題はやっぱり時間のかかるものである。かくいう僕だって、一朝一夕でものの考えがガラッと変わったわけではなく、7〜8年とかけてきたのだから、それを思い出して、いきなり本質、ないし急所を突かないよう、僕自身がじっくり噛み砕いて話をせねばならないとおもう。
単刀直入に斬り込むのは禅のやり方である。わざわざ遠回りして気づきを待ったり、小さなことからコツコツとやっていくのではなく、いきなり真実を突きつける。鈴木大拙は『日本的霊性』において、石頭希遷という唐時代の禅者の話を引いてこれを説明する。
かいつまんで説明すると、石頭とその弟子、石室善道は共に山歩きをしていたのだが、前方を木の枝が塞いでいるというので、石頭はそれを伐るように善道に言いつけた。善道は切る道具を持っていなかったので、貸してくれないかと石頭に頼んだところ、石頭は腰から山刀の抜き身のほうを差し出して「さあ取れ」と言った。それでは危険なので「柄のほうをまわしていただきたい」と善道は頼んだのだが、石頭は「柄が何の役に立つかい」と言ったところ、善道には何か悟るところがあったという話である。
実際役に立つのは刃の方で、柄のところではないのである。柄は刃のところを使うだけの手段となるもので、刃そのものではない。しかし突き出された刃を掴めば、掴んだ手はただちに切れるに相違ない。
(中略)
ところが、実在というものは——それは最後の真実であるが、抜き身と同じもので、近寄るものはことごとく殺されてしまわねばならぬのである。それで、禅者はいつもこの真実を掴ませるために、弟子を教育する上においても、まどろしき手段とか、方法とか、そういうものには頓着しないで、単刀直入にそれを掴ませようとする。石頭は、この故に、抜き身を弟子の目の前に突き出して、「さあつかめ」というのである。鈴木大拙『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫 p.316
禅はまっすぐに真実に向かう。「両手で叩いたら音がする、では片手ならどうなる」などという禅の公案のたぐいは、一見遠回りでまどろっこしく、またただの気の利いた謎のようにおもえるが、公案の前に、禅の修行者はこれまでの常識的な考え方を徹底的に捨てることを要求され、到底不可能でありそうな公案そのものに「なる」ことによって、真実に迫っていこうとするのである。
だが、僕らは禅の修行をしているのではないし、師匠と弟子でもない。相手が積極的に自己を変容させようと願っている、いわば望んで猪木にビンタされに来ているのであるならば、抜き身の刀を突きつけ、本質を突き、急所を突き、これまでの考えを徹底的に放棄することを求めてもよいかもしれない。けれど、生きる苦しみを吐露する人は、そんなことを求めているのだろうか。むしろ、自分の苦しみに寄り添ってほしい、「わかるよその気持ち」と言ってほしい、苦しみを分かち合って和らげてほしいと願っているのではないか。その願いを足蹴にして抜き身の刀を突きつける……ああ、なんて暴力的で、残酷なのだろう。
相手が猪木にビンタされたがっているのか、それとも苦しみを分かち合いたいと願っているのか、よくよく確かめないといけない。僕の経験上、前者はゼロといってもいいだろう。なので、僕は反省し、身近な人に対しては口をつぐむことにしよう。言いたくなってもグッと飲み込んで、「つかない話し方」を心がける。だけど、他人の苦しみに寄り添うことができるかといえば、まったく自信がない。僕は30歳、まだまだ青い。
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今回の一汁一菜

2026/03/21分
ほうれん草・鮭フレークのバター醤油オムライス
エリンギ・トマト・キャベツの味噌汁オリーブオイルがけ
久々にオムライス。やっぱり僕は薄焼き玉子派。ちょっと破けたけど、中身が見えるから、このようなメディアだと好都合。平原オムライスではなく木の葉型にしたのは色気が出てしまったからかもしれない。
参考文献
・鈴木大拙『日本的霊性 完全版』角川ソフィア文庫







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