園芸や庭園よりも菜園にずっと興味がある。同じ土を使うのであれば、花が咲いているのを眺めているよりも、食べるほうに使いたい。まさに「花より団子」の精神でここ3年近く野菜を育ててきた。畑だけでなく、プランターでさえ野菜の育成にほとんど回しているぐらいなのだ。しかし、最近この自分で食べる野菜を自分で育てるという行為自体が〈花〉なのではないかと思い始めた。

ここでいう〈花〉とは文字通り咲き誇って我々の目を楽しませてくれる花のことではなく、己の中で大事にしたい信念であったり、貫きたい意思のようなものである。要するに形のないものであり、精神的な領域に属する〈花〉である。
そして、僕は畑を耕し野菜を育てることによって収穫物=団子を取っているつもりだったのだが、その実〈花〉のほうを取っていたのではないか。そう考えるようになった。
夕食どき、テレビをつければ肉の値段が、卵の値段が、キャベツの値段が、お菓子の値段が……と毎月のように何かが値上がり、家計を圧迫しているとニュースは報じる。卵の高騰に対してマヨネーズを代わりに使おう!などと呑気な対策を紹介しているが、マヨネーズにも卵が使われている以上、何の解決にもなっていない。
どうせもうこの物価高騰は避けられない。ならば、こんなくだらない代替案に耳を貸すことなく、手を動かしていたほうがいい。そう考えて僕は自分たちで食べる野菜は自分で育てようとしている。
とはいったものの、肥料や殺虫剤、燃料代(機械は使っていないが、僕が畑まで車で行くのに必要だ)の高騰を受け、当然自家栽培のコストも上がっている。果たして本当に買うよりも安く済んでいるのかどうかはわからない。
カゴが収穫した野菜でいっぱいになるのは当然嬉しい。親戚や知り合いに配り、喜ばれるのも当然嬉しい。特に、僕が畑を見れないときに面倒を見てもらっている叔母にはその分野菜を多く持ち帰ってもらっているが、食卓にはかなり貢献しているはずである(「はず」ではなく本当にそうだ、と叔母は言ってくれている)。
大体2世帯分プラスアルファの野菜を賄い、ナス・ピーマン・きゅうり・オクラ・白菜・大根・にんにくに至ってはここ2年にわたってほとんど買っていないぐらいには収穫できている。花より団子を欲して、まさにその団子を大量に得ることには成功した。

しかしはたして、その収穫に費やしたコストの分を団子として回収できているのか。鶏糞は多少値上がりしてもまだまだ安いし、米ぬかはご飯を炊く度に玄米を自宅の小さな精米機で精米しているから勝手に手に入るが、何と言っても油粕や液体肥料が高い!土壌改良剤も度々投入するが、これもまた値上がりしているのを感じる。
これら資材を買う分のお金があれば、旬の安い野菜であれば相当量が手に入る。こうした資材の高騰に加え、野菜を育てるのには、何と言っても自分が汗を流す必要がある。単に団子を目的とするのならば、もう野菜づくりはやめてその時間と金を別のものに割いたほうがいいのではないか……。
否、断じて否である。結局僕は団子を取るつもりで始めた菜園に〈花〉を見出している。週ごとに大きくなる苗や葉を見つめ、鈴なりに生った実に驚き、集まる虫たちと格闘したり、ときに憩ったりもする。どこで嗅ぎつけたのか作物や葉を狙って虫がやってくれば、それを食べるために他の虫やトカゲ、カエルが集ってくる。そうした人工に対する自然の関わりを眺めることで、われわれは決して閉じた世界に住まう生き物ではないことがわかってくる。
そして、ときに硬く締まり、ときに柔らかく根を受け入れる、土が持っている厳しさと包容力と直に触れあっていると、固めるしか能のないコンクリートジャングルにはもう戻れなくなる。
菜園の価値を団子の値段で測ってはならない。結果だけを見て「コスパ」を判断していれば、大規模な農家でない限りどれも意味のないことになってしまう。それよりも、自分が苗から面倒を見て育った恵みを受け取る喜び、産地直送数秒で手元に届く野菜の瑞々しさ、厳しい現実を突きつける自然、そして役目を終えた野菜苗の始末と次の土づくり……
人類が1万2000年のあいだ繰り返し、そして発展させてきた農業のプロセスに触れることで自分もまたそんな人類のうちの一人なのであると感じられれば、「〇〇人」だとか性別だとか時代とか、そんなものは一切関係のない、より大きなものへの帰属意識に抱かれるのである。
これからの時代、自分で食べるものを自分である程度賄えないと厳しい時代になってゆくだろう(もうなっている)。しかし、人々は都市に集められ、土地から切り離されている。結局僕がここで語ることは都市部に住まう人々にとって関係のないことであると受け取られるだろう。都市部に住まう人々には圧倒的に「土」が足りていないのだ。だから水耕栽培キットやペットボトルなどを用いた再生栽培が人気を博すのだろう。
僕がこういったものに手を出さないのは、僕が求めている〈花〉がそこにはないからだ。水耕栽培や再生栽培にあるのは、あくまで作物と人との一対一の関係性であり、自然の介入が認められない。扱っているものは自然界のものでも、これらは純粋な人工の世界にあるものだといってよい。
それよりはもっと僕は自然の介入に触れていたい。そりゃあ、ときに葉っぱを大量に食べられたり、きゅうりを半分だけ齧られて残りは捨てられていたり、ナスの実に穴が空いていれば憤慨するが、それもまた事件として人生の面白みになってゆく。そう、人工世界には事件がないのだ。
僕はどこかで乱されることを期待しているのかもしれない。ただし、自然の力がはたらいたものなら諦めるけれど、人間が悪意を持って乱しに来るのはくれぐれも勘弁願いたい。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/08/07分(上)
ナス・モロヘイヤ・油揚げの味噌汁
きゅうりの煮物
野沢菜わさび昆布の漬物
2026/08/10分(下)
キャベツ・モロヘイヤ・油揚げの味噌汁
豚肉・ピーマン・卵の炒め物








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