
この7月〜8月の時期は、とにかく虫よりも草との格闘である。暑過ぎて朝の9時頃には虫が姿を見せなくなる一方で、雑草たちは己がテリトリーの拡大と子孫繁栄を目指して、日光を糧にどこまでも伸びていこうとする。
畑は車で1時間ほどのところにあり、毎日は面倒を見れないなか、ちょっと目を離すとそのスキに雑草たちはわんわんと繁茂している。毎回のように雑草処理が畑仕事には含まれ、剪定、収穫のついでや、肥料やりの途中に目立つものを引き抜きながら、面積の広いところには三角ホーの刃を立てる。そして、とうとう今年は草刈り機の指南を受け、一度畑の周りの草はすっかり刈り取ってしまった。だが、当然根っこは残っているのだから、2、3週間もすればまたわさわさ伸び始めている。
一度その身に刃を受けて地上部を失うという、まさに生命を脅かされるような経験がありながらも、強くたくましく息を吹き返さんとする雑草魂には呆れ半分、感心半分である。われわれ人間はこれほどまでにしぶとく生き残ろうとできるだろうか。どこかで諦めてしまおうと思ってしまいはしないだろうか。意志があるせいで、雑草のように諦め知らずの生を営めなくなっているのではないだろうか。
人間が利用しようとそこに持ち込んだ植物たちに対して、どこからか運ばれてきた種や胞子などから芽吹いた雑草はその成り立ちからして、しぶとくて当たり前なのである。人生(草生?)のはじめからなんの後ろ盾もなく、自らの力と、置かれた環境にある利用できそうなものの力を存分に使って生き延びねばならないのである。そう考えれば我々人間(はおろか、だいたいの哺乳類)はなんと、か弱い存在なのだろう。
また、雑草一本程度なら人間の手によってあっという間に引き抜いて終わりだが、それが束になると人間を圧倒し、心を折ることだってできるようになる。これは群雄割拠のサバンナを生き延びるにあたって、恐ろしい肉食獣や巨体を誇る動物たちに対し、束になることで抵抗してついには生物界を制した人間のようである。そんな人間も、束になった植物には無力になることだってある。
いくら道具を得たところで、そもそも草を刈り取るのにはそれなりの力を要する。三角ホーなど、手仕事の道具での草刈りは当然土と根からの抵抗を受けるわけであるし、草刈り機での草刈りだって楽な仕事ではない。回転する刃は、それはもういとも容易く目の前の草を倒していくけれど、面で広がる雑草を相手にするとなれば人間もかなり消耗する。しまいには刈り取ってもまた復活するときた。
どうせすぐ復活するのであれば、そのまま枯れる季節を待ってもいいのではないかと人間に思わせたら、もう植物の勝ちである。次の世代へのバトンタッチを見事に遂行して、また翌年人間を悩ませるようになる。人間と雑草、果たしてどちらが上手なのだろうか。

畑に広がる雑草との格闘の中で、僕は幾度となく人間の存在の小ささを思い知らされた。自分よりも背丈の低い、一本一本はか細い草たちに、である。
根絶やしにしてやる!と、どれだけ根から引っこ抜いても、必ずどこからか雑草は生えてくる。だからといって、どうせまた生えるのならば、と完全に無視していれば育てたい野菜たちの邪魔になるから抜かざるを得ない。
一本一本の弱さと、その種としての強さによって、雑草は人間の関心を惹き続ける。どれだけアプローチをかけても靡かない人がいる中で、雑草はただそこに存在しているだけで人間の関心を惹くのだ。そして、抜いても切ってもまた現れる。人間はすっかり雑草に振り回されている。人間がこの地上を支配しているだって?とんだお笑いである。
雑草の人生(草生?)は報われるかどうかわからない。まだ次の世代へのバトンタッチの準備が整わない状態で人間に見つかって引っこ抜かれてしまえばそれで終わりなのである。また、無事種を撒き散らすことに成功したからといって、それが実るかどうかもわからないし、その次世代がそのまた次にバトンをつなげるかどうかもわからない。それでも雑草たちは今日も競って背を伸ばす。「雑草」などと勝手に括られて、人間に邪魔者扱いされても意に介することはない。人間の心が折れるのを期待してか、見つからないことを祈りながらか知らないけど、着々と次世代にバトンをつなぐ準備を整えている。報われるかどうかわからなくっても、やらなきゃ始まらないと雑草たちは邁進するのだ。
一方人間はどうだ。報われなければやりたくないとあっさり投げ出す。なまじ意志なんてものを持ってしまったが故に、一つの目標——たとえば、生命のバトンをつなぐこと——に邁進する、ということはできなくなった。言葉を得たことでまだ見ぬものを想像できるようになった結果、「未来」というまだ見ぬものを指す概念が生まれてしまったことは、ある面においては人間の不幸であったかもしれない。
報われるかどうかわからなくてもとにかくやること、その身を裂かれようともしぶとく生きようとすることを教えてくれる雑草は我々の先生になりうる存在である。その割にはそれぞれの名前も知らないし、随分と雑に扱っているけれど、先生だからといって、へいこら頭を下げるばっかりも面白くない。ときに闘うことで教えられるということだってあろう。教師と生徒の場合も、雑草と人間の場合も。
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2026/05/29分(上)
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2026/06/01分(下)
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