エイチ博士の研究室のドアがノックされたので「どうぞ」と博士が応えると、小柄だが、それなりにがっしりとした男性が一人、研究室に入ってきた。彼は博士の古い友人のひとりであるシィ氏。
「博士のほうから急に話したくなったとは珍しいですね。昔はおれのほうから押しかけることが多かったけれど」
「いや、最近きみがどうもあまりいい調子じゃないっていうのを耳にしてね、ちょっと話してみたいと思ったんだ。まあ、座りたまえ」
博士は机中に散らばった書類やら実験器具を片付けながら、シィ氏に座るようすすめた。
シィ氏は研究室のイスに腰掛けるなり、「いやあ、トシのせいですかね、力がみなぎるって感覚がだんだん遠くなっていってるんですよ。本当に。若い頃は毎日のように仕事があって、まさしく馬車馬のように働いたもんです。ですがね、最近はじっくり休まないと力が溜まらないんですよ。そんな調子だから、だんだん仕事もなくなって、今は週に一回でもお呼びがかかればいいほうだ」とすっかり参った様子で話しはじめた。
「ボスのほうはお元気かね」エイチ博士がたずねると、
「そりゃあ、元気といえば元気だけど、元気じゃないといえば元気じゃないですね。ボスは毎朝ジョギングを欠かさないし、朝食からしっかり食べたりと、本当に元気なんですよ。でもね、仕事に行くときになると、いっつもため息をついてるんですよ」
「そりゃあ、きみがそんな調子だから、ボスだってそれにつられて憂鬱になってしまっているんじゃないかね。若い頃のことを思い出してごらんよ。ボスの指令を待たずにあちこち突っ走って振り回す勢いだったじゃないか」
エイチ博士はシィ氏のボスとも古い付き合いで、博士が学生の頃は、ボスの奢りでよく飲み屋街に連れ出されていたものであった。そのときはいつも、ボスの傍らには若い頃のシィ氏がくっついていた。当時のシィ氏は血気盛んで鼻息荒く、ボスの制止も聞かずにあちこちで問題を起こしては、ボスに叱られていた。また、ひとたび仕事となればその小柄な体格がみるみる膨れ上がるという特殊な体質もあって、人を怖がらせていた。
だが、そうしてシィ氏に振り回されることを、ボスはそれを少なからず楽しんでいた様子で、いつもエイチ博士の前では「あいつはいつも俺の知らないところに連れて行ってくれるから、まったく人生に飽きないで済みそうだ。ちょっとやりすぎな部分もあるけどな」と言っていた。そんなボスも歳を重ね、またシィ氏も決して若いとはいえない年齢になった。
「たしかに昔はボスの言うことを聞かずに突っ走ってましたが、今ではこんなおれを拾ってくれたボスのお役に立とうと、毎朝頑張ってスタンバイしているんです。でも、ボスのほうはそんなおれを見て、もういいんだと言うんです」
「ボスは、きみがこれまでのように力を発揮できないことを知っていて、無理しないように言っているんじゃないかな」
「それはわかってます。でもやっぱりおれはボスに必要とされたいんです」
エイチ博士にとって、シィ氏のボスもシィ氏も大事な友人であり、ふたりがこうして今も互いを大事に思いあっているにもかかわらず、ふたりが一緒に沈み込んでしまっている状況を見過ごすことはできなかった。
「きみはわたしが何の研究者か忘れてはいないかね」
「ああ、すっかり忘れてました」
しばらくして、シィ氏は再びエイチ博士の研究室をたずねた。
「博士、この間の薬、本当によく効きましたよ」
「それはよかった。前に会ったときと比べて、すっかり血色もよくなったみたいだね」
「ええ、以前のように力もみなぎるようになって、ボスもすっかりご満悦です」
エイチ博士がシィ氏に与えた実験段階の薬によって、シィ氏はかつての力を一時的に取り戻した。それにつられてシィ氏のボスも仕事に前向きになったようだ。
「それで、仕事の調子はどうなんだい」
「まあ、ライバルは昔に比べてグッと減りましたね。それでも、ちょっとやりにくくなったなあって感じはします。みんなガードが硬いのなんの。世の中全体に元気がないっていうか、浮かれた感じがないから、そんな気分じゃないって断られることが多いです。昔ならおれが前に出てボスの代わりにあれこれやったもんですが、今はそれじゃうまくいかなくて、ボスはおれに隠れてろっていうことが増えました」
「それで、きみはおとなしく隠れているのかい」
シィ氏は深くため息をつき、それから天を仰いだ。
「影にいながらも、ボスを無理やりにでも引っ張り出す、おれのような存在が働かにゃ世界は回らんのです。でも、そういう存在こそ、世間は隠そうとするもんだってことがよくわかりましたよ」
「いや、きみは本当によく頑張っているし、ボスに尽くそうとしている」
「それでも、みんなおれを見るなり、見たくないからあっちいけって、そういう顔になるんですよ。確かにおれのような存在は愛されることはないかもしれないけど、たしかに世界に必要だったはずなんです。それが今では、みんながおれを忘れることで世界のバランスを取ろうとしている」
エイチ博士は、まさにシィ氏のような存在を世間が忘れないようにするための研究をしているのであって、シィ氏の切実な訴えに博士の心は痛むばかりであった。
「どうか、わたしの研究に任せてくれないか。きみのような存在には、いなくなってもらっては困る。なんといっても、人が前に進むためにはきみのような存在が必要なのだから」
エイチ博士はますます研究に精を出し、とうとう実験段階だった薬を実用化にこぎつけた。そして、その薬が世間に流通しはじめてから数ヶ月経ったころ、シィ氏から電話がかかってきて、「ライバルが増え過ぎてたまらない、なんてことしてくれたんだ」と耳をつんざく大声で怒鳴られてしまった。
「は、は、は。調子が戻ったようでなによりじゃないか」博士の笑い声が響いた。
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