今でもこの時期になるとそわそわする。というのも誕生日が近いからだ。そして誕生日といえば誕生日プレゼント。もういくつ寝ると「あれ」が手に入る……と子どもの頃は毎年そわそわしていた。今となっては、とくに誰かから誕生日プレゼントをもらえるわけでもないのに、それでもなんだかそわそわ、モゾモゾする。日差しの中に冷ややかさと清冽さが混じったこの時期の空気を吸い込むとああ、今年もこの季節が来たかと幼い頃の記憶が蘇るのだ。
誕生日もクリスマスも大抵、僕の願いは聞き届けられていた。藤岡弘、氏のおうちでは、ある年齢に達したら子どもたちにサバイバルナイフを贈るのが恒例になっているらしいが、僕の家庭では、そういった親の想いを込めた誕生日プレゼントというよりは、子どもの願いを聞いてその通りのものを買ってくれる家庭であった。
願った通りのものを買ってもらえるというのは、それはそれで幸せなことであるが、親の子への想いを込めたプレゼントというのも、一度くらいは欲しかったかもしれないというのは、ないものねだりであろうか(たぶん、そのときはそのときで親の心を知らぬから文句を垂れるのだろうけれど)。
大人になり誕生日プレゼントをもらわなくなったぶん、今度は僕が贈る側になっている。たとえば父の日。毎年楽天でビールのセットを買うのが恒例になっている。一応毎年買うメーカーを変えて贈ることにはしている。正直ビールならなんでも飲む父だからあんまり迷わずに済んでいるのはありがたい。このように選り好みしない人に対するプレゼントは結構気楽に贈ることができる。ストライクゾーンが広いからなんでも喜んでくれる。だが世の中そういう人ばかりではない。
とくに野菜はストライクゾーンに入らなければ貰ってくれないことが多い。僕が育てた野菜を親戚に配ろうにも、「うちは私しかナスを食べへんからあんまりようさん貰っても……」とか「うちはどうもその野菜はあんまり進まんねんな〜」とか、そういう好みの問題で貰い手を失うことがしばしばある。こんなに美味しいのに、と言っても無駄である。馴染みのない野菜を貰ったからといってスムーズに食卓に迎え入れられる家庭はあまり多くないし、「騙されたと思って」といって容易に騙されてしまう人もそうそういない。みんな用心深いのだ。
シンガーソングライターのTOMOOに『Present』という曲があるが、そこでは次のように歌われている。
プレゼントなんてねどっかで的はずれ?
的外れがもし届くなら
君がそうキャッチしてくれたから
これほど軽やかに、のびやかに「プレゼントはどっかで的はずれなんだ」と歌われてしまえば、確かにその通りだと首を縦に振るしかなくなる。だが、そんなどっかで的はずれなプレゼントでも、ちゃんと届いたのであれば、それは贈られた相手がきちんと受け止めようとする姿勢を持ってくれていたのだと続く(そしてそんな関係性は素晴らしく素敵だ)。
この曲は全体を通して、相手のことを考え尽くすというプロセスに力点が置かれている。どうせ的はずれなのだからプレゼントはなんでもいいやと投げてしまうのではなく、贈る相手のことを考え尽くして選んだ上で、それでもやっぱり的はずれなところはあるのだから、それはもう相手がキャッチしてくれることを願うしかないという、前向きな諦観というか、手を尽くした上で最後はどうにもならないところに任せるほかないというさっぱりとした心持ちが歌われていて好きな曲である。
さて、読者からすればどうでもいいだろうけれど、僕としては的はずれ大歓迎である。たとえば、一家族で食べきるには多すぎるからと、コストコのディナーロールを分けてもらったことがあるが、あれは貰って食べないとその美味しさには気づけなかったものである。
僕は給食のパンの苦い思い出からパンには警戒心が強く働き、とくにああいう中に何も入っていないタイプの食事パンに対してはその警戒度は最高潮に達する。とはいえまったく食べないというわけでもないし、貰ったからには食べようと思って食べてみたら良い意味で裏切られた。こんなに美味い食事パンがあったのか!と。これは安さと量だけでなく、味で売れているのだろうと考えを改めさせられる経験となった。
この世界には、自分では絶対に買わないものや、貰わない限り食べないもの、使わないものに溢れている。だが、貰ったからには何かを返そうという互酬性に基づく(ささやかなものでも)プレゼントの交換によって、どっかで的はずれなプレゼントであっても「貰ったからには」と使ってみればそこに新たな回路が開かれる。こうして世界はかき混ぜられ、社会は偏らないようになっていたのではないかとおもう。
こうして「どっかで的はずれ」なプレゼントの話をしていると、東浩紀のいう「誤配」が思い出される。「誤配」とは、東によるジャック・デリダ研究から抽出された概念であり、届くべき場所に誤ったものが届いてしまったこと、あるいは届けるつもりのなかった場所にものが届いてしまうことを指す。ふつう、通販で間違ったものが届いたら当然カスタマーセンターに連絡し(最近は巧妙に電話窓口が隠されているが)、しかるべき対応を求めることになる。
だが東のいう「誤配」は、予期しない偶然の出会いをもたらす契機にもなっており、本来つなぎ合わされなかったかもしれない回路が開かれ、コミュニケーションの可能性が生まれる可能性を秘めてもいる。東浩紀はこれこそ観光地と観光客のあいだに演じられている関係性だということを『観光客の哲学』に記した。
あたかも観光地に向かうような足取りで、「出会うはずのない人に出会い、行くはずのない場所に行き、考えるはずのないことを考える」という行為が誤配を生み、凝り固まった世界に偶然性を取り入れようというのだ。
「どっかで的はずれ」なプレゼントはそんな誤配のひとつの形態であり、世界を掻き回すマドラーがあったとしたら、そのひと回しを誘発するものではないかとおもう。
誰かによって、想定していないものが手元にもたらされる。自分なら手に取らないけれど、なにせ相手が「この人ならキャッチしてくれるかもしれない」という期待をかけてくれたものなのだ。僕は迷わず手に取りたいとおもう。そしてそのプレゼントには、相手から見えている自分の像も映り込んでいる。それを元に、「この人からは自分はこう見えているんだ」と新たに自分を編み直す契機にもなる。好みに合わないとかそういう話ではない。相手から見て、自分はそれを好みそうに見えていたということなのだ。とりあえず受け止めるしかあるまい。単にアニメや音楽をおすすめされるのとは違う、プレゼントなのだから、心してキャッチせねばらない。
誰かと連れ立って本屋か図書館に行き、互いに「これを相手に読んで欲しい」という本を手に取って相手に渡すというのをやってみれば面白いだろうにとおもっている。そして互いに読んだ感想などを言い合い、また本を交換して読んでみれば、他人の本の読みどころというのを掴めて一層面白そうである。
僕は本屋に行っても図書館に行っても決まったコーナーにしか行かないから、まだ見ぬ本との出会いのために、僕の興味のマドラーを掻き回すために、他人の目というのを入れてみたいとおもっている。
問題は、僕の周りに本を読む人があまりいないということだ。自分で回るしかない。ダンス・ダンス・ダンス。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/08/14分(上)
トマト・レタス・油揚げの味噌汁
わさび野沢菜昆布
わさび椎茸の佃煮
2026/08/17分(下)
わかめ・トマト・油揚げの味噌汁
椎茸と高野豆腐の煮物
きゅうりのわさび漬け
たくあん
わさびが多すぎる。
参考文献
・東浩紀『観光客の哲学 増補版』ゲンロン叢書











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