とあるバンドの曲に「〽︎自分の背中は見えないのだから〜」とあるように、人は自分の身体の全てをその目で見ることができない。背中は歌詞の通り見えないし、お尻も見えない。男性は下を向けばぶら下がっているモノを見ることができるが、女性は下を向いたって見えない(見たくもないかもしれない)。また、いくら自分自身とはいえ、胸の中、腹の中には人体模型通りに中身が入っているかわからない。そして何といっても自分の顔を自分で見ることはできない。「いやいや、毎日見ていますよ」と言われるかもしれないが、それは鏡に映した〈像〉のことだ。鷲田清一は次のようにいう。
……だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。ましてや、自分の顔は、終生見ることができない。ところが、その顔に、じぶんではコントロール不可能なじぶんの感情の揺れが露出してしまう。なんとも無防備なのだ。
(中略)
ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、この僕の身体って離れて見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり〈像〉でしかありえないことになる。鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』p.11 筑摩書房
誰か他の人の身体なら、見つめられるほうは嫌だろうが、その外側をくまなく見ることができる。しかし、もっとも近いはずの自分自身という存在を自分では決して「見る」ことはかなわない。〈像〉をもつことでしか、その欠落を補うことができない。
鏡に映る自分は自分自身ではなく、自分を映した像である。その像を、自分が世界を見るときのフィルターを通して見つめる……という少々入り組んだ形でしか自分の姿を眺めることができない。このとき、自分が世界を見るときのフィルターが何らかの形で歪んでしまっていると、自分が醜いもののように見えてしまい、整形願望や苛烈な痩身願望を抱くようになったりする。周りがいくら「そんなことないよ」といってもムダだ。世界を見るときのフィルターがすでに歪んでしまっているのだから、友の言葉も歪んだ形で届いてしまう。かように、自分自身を眺めるにはどうしたって〈像〉を経由するという回り道を通らなければならず、最短ルートを取ろうにも、それが最長ルートになってしまうという矛盾めいた事態に陥る。ふたたび鷲田清一を引用する。
ニーチェという哲学者は、「各人にとってはじぶん自身がいちばん遠い」と言っているけれど、それをまねて、ぼくらにとってはじぶんの身体がいちばん遠い、と言えるのではないだろうか。
前掲書、p.7
自分自身であっても窺い知ることのできない未知の部分があること、そして、自分が自分自身と一番遠く隔たっているということによって、人は内なる神の観念を抱くようになっていった。自分の中に、けっして人間の感覚ではつかまえることのできない、なにか質的に異なる他者がいるのではないか、という考えだ。今では、その神と人の空隙がフロイトの「無意識」の発見によって埋められていくことになるのだが、結局自分の根っこにある根源的、本能的欲求の正体をつかまえるには至っていない。結局神と人の質的差(絶対と相対)も埋まっていない。
宗教も哲学も、未だ人の「自分そのもの」をつかまえて定式化することには成功していない。結局それは「経験」するほかなく、またその「経験」はあまりにも現世のものとは隔たっており、言葉にしようにもできない。いや、言葉にしたところでその「経験」の豊饒さを余すところなく伝えることはできず、痩せ細った経験の断片しかこの世に落とすことはできない。
といった具合なので、人はそれぞれ「自分そのもの」あるいは「自分らしさ」といったものについての悩みがいつの世も絶えず、それらをつかまえようと旅に出る人は後を絶たない。世界のどこかに「自分」が落ちているかもしれないからと、だいたいインドかそこらに旅に出る。そこでこれまで生きてきた世界とはまるで違う世界観に眼を洗われ、なんて自分の生きてきた世界はちっぽけだったんだろうということに気づいて、その体験をもとに新しい自己像を作り上げて帰ってきたりする。
「自分」をめぐる旅といっても、本当に旅に出てしまう必要はたぶんない。けれど、今自分が身を置いている状況から一度抜け出すことで、「自分」をめぐる旅は遂行しやすくなるのだろう。だが、たとえばインドに旅に出てしまうことによって、インドと日本の距離が、「自分」との距離のように思えてしまって、インドでの発見がまるまる「自分」の発見だったかのように満足してしまう可能性はないだろうか。もちろん、そこで見たもの、食べたもの、感じたものはとっても大事な体験で、これからの人生を彩る思い出となるだろうけれど、本当にそこで「自分」は見つかったのだろうか?
結局のところ、「自分」をめぐる旅は、一番近いところから出発して、一番遠いところを目指してゆかなければならない。あまりに長い道のりで、死ぬまでに終わらないかもしれない。「自分自身」をつかまえるには僕らの寿命は短すぎる。人生80年になったからといって、それでもまだまだ、宇宙に比べれば短すぎる人生だ。
「自分を見つける方法」があると嘯く占いや性格診断、心理テストに人は飛びつく。いくつかの質問に答えていったからといって「自分」が見つかるわけはないのに、ほんのわずかでも自分の〈像〉を補強できるものはないか、確かめる術はないかと人は嬉々として質問に答え、結果を見て一喜一憂する。出てきた性格タイプによって「自分はこういうタイプです」「あいつはああいう奴だ」と分類区別(そして差別)しようとする。
ほんの少しでもヒントがありそうものなら飛びつかざるを得ないほど、人は自分の〈像〉を知らせてくれるものに飢えている。遠すぎる「自分」のしっぽをどうにかしてつかまえられないかと試行錯誤する。その結果として人は「自分」に近づこうと、ありとあらゆることを語り始めた。こうして種々の文化は生まれ、共感あるいは忌避が人々の間でうねりを生み出し、現在に至るまで、豊饒な人類の文化の蓄積をもたらしてきた。これらは遠く、果てのない旅の中だからこそ紡がれてきたといってよいだろう。だれか、旅を了えた人がその成果を十分な形でこの世界にもたらしてしまったら文化は途絶えてしまうだろう。結局のところ、「自分を見つける方法」のなかで、もっともらしいものでいえば、「語り続けること」しかないのだろう。一時の性格診断などで自分を固定しようとせず、常に語り続けること。それでもやっぱり、一番遠いところには届かないだろうけど、続けていれば、まあまあな距離にはなるんじゃないだろうか。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/05/04分
キャベツ・ほぼカニ・油揚げの味噌汁
豚こまの生姜焼き
参考文献
・鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』筑摩書房→ちくま文庫











コメント