今回の話をする前に、まず「編集」という言葉の枠を広げておかないといけない。この世には「編集」が満ち溢れており、なにごとも「編集」だと喝破したのは松岡正剛であった。
なにも「編集」の語がそのままあてられている動画、画像、文章などの“編集行為”だけが「編集」ではない。料理はまさしく食材の編集であるし、それを消化、吸収するプロセスも、外部から取り込んだ物質を自己の一部にかえる編集といえる。インテリアは部屋の編集だし、ガーデニングは庭の編集である。建築は都市の編集であるといえるし、化粧は自身の見え方(見せ方)の編集で、会話は人間関係の編集だ。そして戦争も……。
そもそも、生命そのものが編集なのだ。遺伝子という設計図に合わせて種々の物質を「編集」し、体を作り上げる。そしてその維持、成長のために外部の物質を取り入れ、またそれを「編集」する……この世のありとあらゆる物事が「編集」であるといえる。
この「編集」において、日本は世界でも抜きん出ているといえる。イチから何かを生み出すのはあまり得意でなくても、外から受け入れたものを日本流に編集してみせてわがものにする手腕はどこよりも優れているといえよう。稲の栽培に始まり、仮名文字の開発、茶の喫み方から仏教、さらにはキリスト教ですらも日本では編集の対象になった。そして、なんといってもカレー、ラーメンである。
国民食ともいえるカレー、ラーメンはいずれも日本にはもともとなかったにも関わらず、食への執念がそれをもたらすのか、徹底的な改造、改良が加えられ、人口に膾炙してもなお、いまだによりよくできないか研究が進められている。また、各家庭においても、「うちのカレー」編集合戦が日々繰り広げられている。日本人には「これはいける」とおもったものを徹底的に編集し、わがものとして取り込んでしまうところがあるのだ。だが、ここまでの大掛かりな編集でなくとも、我々はいつも意識せずに細々とした編集をしているといえる。そう、日本は国民総編集者の国といえるのだ。
例えば、SNSに投稿する写真や文章。そのまま撮って出し、書いて出しするのではなく、何らかのフィルターをかけたり、推敲したりして、意識しないうちに編集をしているはずである。服のチョイスや化粧なども、日々何気なく行なっている編集だし、料理はその日常的な編集のなかでも、生命維持に関わる部分として重要ながら、あまり編集として意識されていないものだといえる。ミニマリストの佐々木典士と自炊料理家の山口祐加による『自炊の壁』では、次のように語られている。
山口 私は、ゆで卵に塩をかけるのも、きゅうりに味噌をつけるのも立派な料理だと思っています。料理に抵抗やハードルを感じている人は、塩をかけたり、毎日なにげなくしている行為を料理だとみなしていないことが多いんです。「料理」というと急に壁がドンとできてしまって、極めないといけないもののように思われていて。
(中略)
山口 バーベキューで野菜を切る、サラダにドレッシングをかける、みたいなものも含めると、ほとんどの人は何かしらの料理をやった経験があると思うんです。だから、私は「お前はもう……料理している!」と思うんですけどね。『自炊の壁』p.043〜044
「料理」となると、急にハードルが上がったような気になる。手をしっかりかけないと料理と呼べないのではないか……すっかり料理に対して自信をなくしてしまっている人たちに、「お前はもう……料理している!」と山口祐加は太鼓判をおす。ちょっと日本の食事のレベルは高すぎるのだ。それがまさに『自炊の壁』を作り出している。欧米を見てみれば、缶詰のスープやベイクドビーンズを温めて、あとはシャルキュトリーにパン、みたいな食事ばっかりだ。日本では「こんなの自炊に入らない……」と思えるような食事が当たり前に行われている。もっと日本人は自炊に対し、自信をもってよい。山口祐加は日本人を食における「『東大生の落ちこぼれ』」(p.160)と評する。世界的に見れば超レベルが高いのに、こと日本においては、周りのレベルが高すぎて自分のレベルを不当に低く見積もってしまっているというのだ。
都合のよいときだけ、グローバリズム的な視点とナショナリズム的な視点を持ち出すのはあまり好まないが、双方をデュアルに眺めて行ったり来たりし、自分の位置を見定める、というのは必要な視点ではないかとおもう。そして、この「デュアルな視点」というのは日本のお家芸であったはずである。神と仏の習合に、和魂漢才、茶の世界でも侘び茶と文人茶がデュアルに駆動してきた。武家と公家のデュアルエンジンというのも見逃せない。このように、二つのことがらを並べて、どちらか一方だけでなく、行ったり来たりしながら編集してきたはずなのだ。今の日本にはそれが欠けている。
自炊の領域に関しても、「自炊vs店屋物」のように対立軸を設けて、どちらが「コスパ良い」のかなどと議論を交わしているのは、じつに「コスパが悪い」。自炊は自炊、店屋物は店屋物と、それぞれの領分を人間のほうが行ったり来たりして編集すればよいのだ。店屋物のよいと思ったものを自炊に持ち込んでもよいが、店屋物には店屋物の領分というものがあるのだから、それを侵さないようにする。そうすれば不当に自炊のハードルが上がることはない。僕は「家庭で店の味」なんていうものは面白くないとおもっている。双方を曖昧に混ぜ込むのもまた、日本人の得意技であるが、けじめをつける部分が必要だとおもう。
聖と俗、ハレとケ、自炊と店屋物……あらゆるデュアルなものを同一の価値判断基準——カネ——におとしめ、無味乾燥化させてしまう考え方が世界を席巻している。もう限界だ限界だといわれてもなお、ヒトはカネに踊らされている。それでもなお、カネへの恭順を誓うヒトがあとを絶たないのは、それ以外の生き方を知らないからであろう。松岡正剛がいうように、「日本の方法」にもとづいて、日本のありかたはもっと編集可能であったはずだったのに、それを手放してしまった。明治と昭和の二度もだ。
いまの世界のあり方が心地よいのであれば、それに身を委ねるのを止めはしないし、十全に楽しまれたらよいとおもう。でも、ちょっとでも違和感を感じているのであれば、身を起こして、身近なところから「編集」を試みてほしい。まず、自炊から見直すというのはちょうど良い機会になるのではないか。土井善晴も、山口祐加も、口を揃えて「自炊は帰る場所」であると言っている。そして、その自炊はもっと肩の力を抜いてやればよいし、また自炊についてもっと自信を持ってよいのだ。あなたはあなたの帰る場所を作ることができるんだと、その編集力をあなたはすでにもっているんだ、と僕はいいたい。
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今回の一汁一菜

2026/01/22分
ソーセージ・レタス・ミニトマトの味噌汁オリーブオイルかけ
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり
洋風の具材、とくにレタスとトマトには、オリーブオイルをかけてブラックペッパーを振るとうまい。
参考文献
・佐々木典士 山口祐加『自炊の壁 料理の「めんどい」を乗り越える100の方法』ダイヤモンド社
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社(新潮文庫版もあり)
・松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』講談社現代新書
・松岡正剛『知の編集工学 増補版』朝日文庫







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