0056 世界の切り方①:多数派/少数派の基準

百汁百菜

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 大学のころ、僕は心理学を学んでいたのだが、そこで「社会」の最小単位が心理学と社会学では違うんだ、というようなことを聞いたことがある。心理学では、あなたとわたしの関係があれば「社会」が成立するので、「社会」の最小単位は2人であるとするが、一方、社会学では、3人いないと「社会」が成立しないという。2人では片方が抜けたら終わりだが、3人目の登場によって、そこに社会性が生まれるというのだ(このとき、ゲオルク・ジンメルの説を指してその教授は言ったはずである)。
 人は3人になると、2対1になるかもしれなかったり、対立する2人の間に入る仲裁者という役割が生まれたり、漁夫の利をとる人が現れたり、2人で抜け駆けしないように牽制するもうひとりがいたりと、3人になることで一気に社会的な人間の行動が浮かび上がってくる。三国志が今でも強烈に人々を惹きつけたり、恋の三角関係が物語で度々登場(現実でもおこることはあるだろうが)するのは、この鼎立ていりつ状態が生み出す駆け引き、緊張感、ドラマ性によるものだろう。組むはずのなかった者たちが、利害の一致で一時的に組むことになったり、ライバルのはずなのに、塩を送るような真似をしてしまうといったことは、物語のトロといえるような部分であり、人々はそこにずっと燃えてきた。

 このような3人の関係性においては、目まぐるしく多数派と少数派が入れ替わったりする。恋の三角関係を例にとれば、ひとりの異性を取り合うふたりの同性という関係性が生まれ、もしカップル成立となれば、交際しているふたりと、そうでないもうひとりという関係性になる。3人のうちふたりは同じクラスで、もうひとりは違うクラスという切り分け方になったりすることもあれば、出身小学校で2対1になったり、パン派がごはん派かで2対1になるようなこともあるだろう。このように、無限ともいえる切り口で3人の関係性は多数派と少数派に分けることができる。ときには三者三様となって分散することもあるだろうが。それでもおそらく、いついかなるときも少数派であることはできない(多数派であることもできない)。これは現実の社会においても同じであるはずだ。
 3人を超える人々がいる「社会」だからイメージしにくいだけで、人はいついかなるときも少数派であることはできない。世界の切り方、切り口によっては多数派に属してしまうことになるだろう。逆もまた然りで、つねに多数派ではいられない。絶対少数派、ないし絶対多数派になりたければ、自身の属性を世界の切り方に応じて自在に変化させつづけなければならない。そして、その作業を繰り返すうちに、必ず自身を規定している、動かし得ない他者の存在(両親、土地、風土、社会情勢、技術など)の存在にぶちあたり、頓挫することになる。

 現代において少数派であるということは、本来はイコールではないはずの「弱さ」に接続されてしまうきらいがある。少数派が力をもっていた貴族主義とは違い、民主主義を標榜する社会においては、一般的には多数派が力を持っており、そちら側にいることで自分は「間違っていない」という安心感を抱くことができるから、人はついそちら側につきたいと考えてしまう。オルテガ・イ・ガセットの指摘するところによると、「大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことをいう」(『大衆の反逆』岩波文庫 p.69)とし、その大衆たちは、「みんなと違うもの、優れたもの、個性的なもの、資格のあるもの、選ばれたものをすべて踏みにじろうとする。みんなと同じでない者、みんなと同じように考えない者は抹殺される危険に晒され」(同、p.74)てしまうのである。少数派は社会から排撃され、退けられ、隠されようとしている。そうした攻撃の対象となる少数派は「弱者」の枠に押し込められてしまっている。

 松岡正剛は「弱さ」に注目した著書『フラジャイル』にて、人を「弱者」に振り分ける基準について、「そこには、ありもしない健常性や正常性という平均値が想定されている」(ちくま学芸文庫版、p.018)といい、「その平均的な正常性からすこしでも変位したり、ずれた者には、ときに悪意をもって弱者の規定がくだされる」(同)といった。われわれは、ありもしない健常性や正常性をもちだして、人々を区分けしようとしている。昔は「変わった人だね」で終わっていたことに対しても、「普通」や「健常」「定型」なんて言葉と基準をもちだして区分けするようになってしまった。そして、本来イコールでは結びつかないはずの少数派と「弱者」が結びつき、他人からの評価だけでなく、自分自身に対する評価もこのような基準の数々に支配されるようになってしまった。「あの人は〇〇だから」などと、判を押したかのような人物評価がまかり通るようになり、また、自身でも「〇〇だから自分はこうなんだ」と、より信念を強化することにもなっている。こうして、少数派に立たされた人はいつも自分が少数派であるかのようにおもいこんでしまう。これは逆もまた然りである。多数派に立っている人間は「没個性であること」を恐れてはいるものの、なんだかんだ言って多数派にいることに安心しているのではないか。

 人は、「社会」が決めた絶対的な基準(かのように見えるもの)にしたがって、自分は多数派か少数派、強者か弱者かであるかを考える。だが、その「社会」なんていかようにでも切り取ることができる。世間では少数派といわれるような趣味を持つ人々であっても、同好の士が集まる場を設ければ、その場では圧倒的多数派を占めることになる。「弱者」の側として括られてしまっている人々も、特定の集まりでは多数派を占め、発言力、行動力をもつ側にまわることだってあるし、ときに「弱者」であることが強烈な力をもつことがある。
 会社、学校、サークル、家族、近所づきあい、離れた友人、飲み屋で毎回顔を合わせる常連仲間たち……置かれた「社会」において自分の立ち位置は常に変動し、常に多数派でもいられなければ、少数派でもいられない。また、常に強者側に立てるわけでもなければ、常に弱者側に立って配慮を求めてばかりもいられない。会社でエライ立場にいるからと、その会社の外の「社会」においても威張ってしまうのはこれを理解できていないからだ。
 僕はここで、「お互い様」感覚をもたねばならないということを主張したいのである。自分はある「社会」では多数派または強者だからと威張るのでもなく、ある「社会」では少数派あるいは弱者だからと僻むのでもなく、その場その場の「社会」に応じてそんなものはあっさり変化してしまうのだから、いつも互いにリスペクトをもって接するのである。たしかに日頃からのクセは抜けないかもしれない。多数派である自分、少数派である自分にアイデンティティを見出している人にとっては、その危機をも招きかねない。だが、その基準というのは実は脆くはかない。厳しくその基準を適用しようとする人もいれば、まったく目もくれないという人もいる。そんな人からすれば、そのような基準は何の価値ももたないからである。自分を価値づけるものの相対性に気づくことができれば、自ずから、「お互い様」という感覚が湧き上がってくるだろう。

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2026/03/03分

粕汁
チンゲン菜・ニラ・ベーコンの炒め物
京菜と大根漬け

参考文献

・オルテガ・イ・ガセット(著) 佐々木孝(訳)『大衆の反逆』岩波文庫
・松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫

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