0061 無欠はドラマを生み出さない

百汁百菜

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 月がいつも満ちていたら、誰も月に想いを託して歌など詠まなかっただろう。恒常、円満、具足、無欠……これらに「もののあはれ」は宿らない。
 鈴木大拙は平安宮廷文学のこのようなところを、涙に濡れてばかりで骨がないと批判した。鈴木は仏教者だからこそ、このような考えになるのだろう。宗教というのは完全、絶対なものとの関わりの中で欠落を埋める、ないし回復する作業である。鈴木にしてみれば、「もののあはれ」で欠けたものへの哀切を表明するだけでは深みが足りぬ、絶対との関わりのなかで起こる「否定」が深みをもたらすのだ、というわけである。
 だが、それで絶対に触れ、絶対を識った者の話はドラマにならない。鈴木自身が他人のそのような経験を「古着であり、買置きであり、人伝えであり、報告であるから、そのものとしては価値のないものである」(鈴木大拙『日本的霊性』)といっている。絶対との関わりは、自身で経験しないと意味がないというのである。だが、そんな宗教的経験は他者に伝播しようにも、それは使い古しの、そして言葉にし得ないものがすっかり欠けた、意味のないものになってしまう。なので他者の心を動かすドラマにはなり得ないのである。
 誰もが己の欠けを埋めたいとおもっている。完璧になりたいとおもっている。だが、それが決して埋まらないことを知っている。そこでその、どうしても埋まらない悲しみを人は表明するのだ。そこにドラマが生まれる。そして、人は完璧に見えても、どこか欠けたところがあるものに対し、近しい感じをおぼえるはずだ。欠点のないものは「可愛げがない」と、もはや「完璧であること」が一つの欠点のように扱われている。

 最強で、無敵で、無欠のヒーローはこの世にいない。みんなどこかに人間らしさ、人間臭さを抱え、また後ろ暗いものを背負っているし、明確に弱点が設定されている。ウルトラマンは地球上で活動できる時間が限られているし、その巨躯はときに街を破壊してしまうこともある。意志疎通がままならなかったり、正体を明かせないがために起こる人間たちとのすれ違いがドラマを生む。
 敢然と悪に立ち向かう仮面ライダーたちも、特に『仮面ライダークウガ』以降の「平成ライダー」からは、人間臭さがたちこめるキャラクター像を付与されており、どこか超人的雰囲気を漂わせていた「昭和ライダー」に比して、本当にその辺のあんちゃんが戦っているようにおもえてくる。
 一見無敵のヒーローも実は無敵ではない、という意味で印象的だったのは、2016年より放映された『仮面ライダーエグゼイド』の主人公、仮面ライダーエグゼイド/宝生永夢(ほうじょう・えむ)の最強フォーム、「ムテキゲーマー」である。これは文字通り本当に「無敵」で、圧倒的な攻撃力と完璧な防御力を誇っており、一切ダメージを受けない。こんな最強フォームを得てしまうとそれで物語が終わってしまうのではないか……とおもわれたが、実際は弱点を抱えており、それがドラマを生み出した。弱点の一つは、まず、変身者が生身の人間・宝生永夢であるということ。「ムテキゲーマー」への変身前に狙われては元も子もない。そして、もう一つの弱点は、永夢が仮面ライダーに変身できる資格に関わる問題であるのだが、これは比較的最近(といっても10年前の作品だが……)なので、本編を観て確かめていただきたい。とくに後者の弱点は、『仮面ライダーエグゼイド』後半の物語を大いに盛り上げたところであり、この作品が未だに語り継がれる要因にもなっている。無敵だけど無欠じゃない「ムテキ」だからこそ、そこにドラマが生まれ、人を惹きつけるのである。

 松岡正剛は「弱さ」に着目した一冊『フラジャイル』にて、世界の神話や伝承、著名な小説の主人公たちには、しばしば弱点や欠けた部分が設定されていることを指摘し、「欠けた王」の物語が世界中に散らばっているといった。

 英雄アキレウスにアキレス腱(アキレウスの踵)という致命的な弱点があるように、オデュッセウスは猪の牙による傷を脚に負っているし、北欧の万物の父であるオーディーンは単眼であって、槍で突かれた脇腹の傷がある。わがスサノオは見たところ五体満足のようだが、生爪をはがれ、ながされ、足ナヅチ、手ナヅチに救われるまでは不具者としての日々を余儀なくされている。それにスサノオは、ひどい泣き虫、つまり「哭きいさちる神」であった。

松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫版 p.262〜263

 このように「欠けた王」たちは物語のなかで、その弱さを強さに反転させていくのだが、そのプロセスは通過儀礼としての一面ものぞかせる。何か弱点が露呈して危機に陥ったり、またなにかを手放すことによって権利を得たりと、そういったドラマが生まれる。
 だが、松岡が『フラジャイル』で議論したかったのは、このような派手な冒険活劇を与えられないままに、「弱み」をもっているからと、時代の敗北者、除外者にされてしまった者たちの物語なのであった。そうして、皮膚病に侵された「弱法師(よろぼうし)」の話から、何らかの障害を足にもつ「よろめく神」へと展開していく。これらの物語には、「弱さ」をもつ者に対する強烈な差別・排除の意識と、それが反転して強い聖性へ転化するという、「「弱さ」というものを極端に重視してきた裏側の眼」(前掲書、p.270)がはたらいているというのだ。人々は「弱み」をもつ者を強く差別する一方で、彼らは仏や菩薩の化身であるとみなされており、彼らに敬意を表したり、また施しをすることで、人々に仏の慈悲や智恵に触れる契機をもたらしていたという。そうやって、われわれはいつも弱きものには何かある、と注目していたはずなのである。

 ところが、今の世の中は「弱み」をひた隠しにし、強さを誇ることがその人の価値のようにおもわれている。物語においても、くよくよ悩む主人公は読者、視聴者からの攻撃の対象になったりもする。「フィクションでぐらい夢を見させろ」「現実の延長をフィクションでも見たくはない」云々。弱みを晒せばその瞬間に負けたような気にさせられてしまい、弱さを弱さとして受け止められなくなっている。
「弱みも言い換えれば強みである」などと就活セミナーの文脈では語られることがしばしばある。確かに弱みが反転して強みが立ち上がってくることはあろう。しかし、その反転した強さが「利用価値」などというつまらない言葉に回収されてしまうのはまったく面白くない。何でも強さに変換しようとするのも気に食わない。一度強さの文脈に組み替えないと弱さを直視できないようにされてしまったのだ。
 何もかもを「強さ」の物差しで測ろうとし、弱いことで語るのではなく、強いことばかり語ろうとするこの世にあって、「弱さ」「欠点」の支持者の肩身は狭い。なにも、強くあろうとすることがいけないと言いたいのではない。むしろ、克己心を発揮して、昨日の自分を超えていく!と励む人を尊敬する。だが、その克己の意識はもはや病的な域にまで達しているのではないか。強い自分でなければならない、そうでないと自分を愛せない。思春期の過大な自己愛すらも痩せ細ってしまっている。

 もし今あなたが「完全無欠」になったらどうする?どうなる?おそらく、全てに満足して、何も求めなくなるだろう。時は止まり、空間は無限に拡がり、全ての他者があなた自身で、あなた自身がすべての他者であることが感ぜられるだろう。宗教ではしばしばそんな境地が目指される。だが生も死もないそこにドラマはあるのか?僕が宗教に関心を寄せながらも帰依しないのはそこがどうしても引っ掛かっているからだ。無欠になって静止したドラマのない世界に「在る」よりも、欠点だらけでも動きのある現世に生きていたいと僕はおもっている。だってそのほうが面白そうだから、と今のところは言っておく。

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今回の一汁一菜

2026/03/11分

厚揚げ・ほうれん草・にんじんの味噌汁
蒸しブロッコリー・カリフラワー・玉子
なめ茸

ブロッコリーとカリフラワーは庭で育てたもの。去年中に採れるとおもっていたら、すっかり年越し、もはや年度末である。

参考文献

・鈴木大拙『日本的霊性』中央公論社『日本の名著 43 清沢満之 鈴木大拙』を参照した
・松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫

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