「悪ガキ教授」ことスティーヴン・D・レヴィットはスティーヴン・J・ダブナーとの共著『ヤバい経済学』で、「道徳が私たちの望む世の中のあり方を映しているのだとすると、経済学が映しているのは世の中の実際のあり方だ」(『ヤバい経済学 増補改訂版』p.254)といった。そこでレヴィットは経済学の分析手法を用い、「道徳的な建前を脱ぎ捨てて、データと真っ正直に向かい合」い、「現代の日常の上っ面を1枚か2枚引っぺがしてその下に何があるかを見」(同、p.13)てみることにしたのだ。そうして生まれた問いは「学校の先生と力士、どこがおんなじ?」や「ヤクの売人はどうしてママと住んでるの?」といった、普通に生きていたら考えもしないようなものとして我々の前に提示される。あまつさえ「アメリカ版キラキラネーム」にまで分け入り、親の教育水準の高低による名前の傾向だの、スペル間違い(日本でいうならば、到底読めない当て字だろうか)にまで言及する。この「悪ガキ教授」、怖いものを知らないとみえる。タブーっぽい性と死や環境問題もさかんに論じた続編『超ヤバい経済学』と合わせて、世の中の考えをひっくり返す、というよりは、ブ厚い常識や社会規範の皮を引き剥がしたモノの見方を提供してくれ、たいへん痛快に読んだ。そんな2人のスティーヴンの快刀乱麻はとどまることなく、その続きともいえる一冊として世に送り出したのが『0ベース思考』である。
僕は2020年ぐらいにこの本に出会ったのだが、これ以前と以後では、人生の立ち回り方がまるで変化したといえる。例えば、僕は「世界でいちばん言いづらい言葉」を言えるようになった。はたして、それは何か、考えてみてほしい。「好きだ」?「愛してる」?「ごめんなさい」?もちろんこれらも言いにくいが、一番はやっぱり「知りません/わかりません」ではないか。少なくとも、僕はこの本を読むまでは「知りません/わかりません」をなかなか言えなかった。
かのソクラテスは「無知の知」を自覚し、また後世の人々はそれこそ賢者であると彼を称揚するが、それこそ、いつの時代にあっても人は「知りません」と言えない動物であることの証左である。なぜこれまでに人は「知りません」と言えないのか。
ひとつには、「自分は周りよりも優れている」と勘違いする「平均以上効果」とも呼ばれるものである。ドライバーに「あなたは平均より運転がうまいと思いますか?」と質問すると、半分以上が「平均よりうまい」と答えるあれだ。「自分は人並み以上には知識がある」と思い込んでいるということである。
また、知ったかぶりをすることで得をすることがあるのも、「知りません」と言えない原因の一つになっているという。というのも、知ったかぶりをしてその場をやり過ごし、あとで事実が判明して間違いだとわかるよりも、素直に「知りません」というほうがずっとダメージが大きいからだという。それはそうだ。あとで間違いが判明したとて、人はいちいち目くじらを立てず(ネット上では知らないが)、あとから訂正を求めてこられたりはしない(それをしてくるヤツは間違いなく嫌われる)。それよりも、その場で「知りません」と恥をかくほうがよっぽどつらいのだ。
極め付けは、道徳的判断基準である。問題が道徳的に正しいかどうかという判断軸をもちだされると、人は途端にものを考えられなくなる。刃が鈍るといってもよい。始末が悪いのは、「道徳的に正しい」とことについて、人は「答えなんて決まっている」として、それ以上学ぼうとしなくなる。例えば、ポルノコンテンツの議論になったとき、人は思考停止しがちである。仮によい面(必要悪としての一面、ともいえるか)を提示されても、それを認められないし、「それは知りませんでした」なんてとても言えない、そんな感じである。
こういった人を縛り付けているバイアス、恥の感覚、社会規範・道徳を一旦隅において考えてみようというのが『0ベース思考』なのである。「当然〜すべきだ」となどという桎梏から人を解き放つ一冊であると同時に、社会規範に縛られた人からは当然白い目で見られるようになってしまうから、人を孤独にもし得る一冊でもあって、諸刃の剣といえるのではないだろうか。だが、僕はこの諸刃の剣を握ることにしたのだ。だがそこで感じたのは、血を流す痛みよりも、大きな解放感だった。「社会のレールから降りてもいいんだ」という……
『嫌われる勇気』(0016参照)とも歯車がガチッと噛み合ったことによって、世界でいちばん言いにくいあの言葉——「知りません」——も平気で言うようになった。仮にそれで「こいつはバカだ」と思われても「仕方のないことだ」と割り切るようになったからだ。知ったかぶりするよりも、相手に気持ちよく解説させたほうがよほど人間関係はうまくいくし、また、本当にこの世は知らないことだらけなのだから、新たな知識を得る機会として歓迎している。
その一方で、社会規範に縛られた思考にとらわれて苦しそうな人に対しては、その桎梏を解き放つような言葉をかけてみたりもしたが、これは全く効果がないどころか、むしろそれまでその人が依拠してきた思考基盤(アイデンティティといってもよい)を根底から崩しかねない危険人物として距離を取られるようになってしまった。これは僕を孤独に近づける負の側面であるといえよう。これに対しては大いに反省し、それからは口を慎むようこころがけている。
「すべてのバイアスをゼロにして考えろ———。」『0ベース思考』の帯にはそう書かれている。でも、実際にはすべてのバイアスをゼロにはできない。バイアスがない状態は恐ろしい。我々は朝起きる度にすべてのできごとに驚かないといけなくなる。ウィトゲンシュタインふうに言えば、「すべてのバイアスを除いて思考することをわれわれは思考できない」のだ。でも、今自分にかかっていたり、縛っている存在へ意識を向けることはできる。『0ベース思考』がもたらすのは、自分自身にかかるバイアスと、自分を縛る社会規範への絶えることのない異議申し立てなのである。この本を読んだが最後、社会規範で「ダメ」だとされているものが、果たして「本当にダメ」か考えてしまうようになるのだ。これは「悪魔」のささやきといってもよい。キリスト教圏でこの本が生まれたことは注目に値する。
この本はビジネス書としての色が濃く、意思決定者に向けて書かれているふしがあり、そういった人々は元来孤独を抱えているのだから、副作用をあまり気にする必要はないかもしれない。しかし、僕ら普通の人々にとっては、新たな世界の見え方を獲得するかわりに、孤独を引き受けなければならないという重い副作用をもった劇薬になる。あなたが万人から好かれたい人であるほど、これは重くのしかかってくるであろう。「王の力はお前を孤独にする」……とあるアニメの台詞だが、その意味が少しわかったような気がする。
ところで、僕はこの『0ベース思考』を機にビジネス書を買うのも読むのもやめた。そういった意味で記念碑的、また墓標的な一冊なのだ。「0ベース」に立ち戻ったとき、人がもとめるのは、やはり人文学なのである。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/13分
白菜・えのき・にんじんの味噌汁
カキフライ1個
白菜・玉子・ベーコンの炒め物
最近は週に一度、父親も一汁一菜に参加するようになっているのだが、そこで父は食べ応えのあるおかずを所望するので、「もうそれは自分で作ってくれ」ということになっていて、そういう日はちょっとおかずが多いのだ。僕はみそ汁を作り、ご飯を炊くだけ。
参考文献
・スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー(著) 望月衛(訳)『ヤバい経済学』および『超ヤバい経済学』東洋経済新報社
・スティーヴン・レヴィット、スティーヴン・ダブナー(著) 櫻井祐子(訳)『0ベース思考』ダイヤモンド社






コメント