本を読むとき、これを書くとき、僕はメインで使用しているスマホを物理的に目につかないところに置くようにしている。ポケットにさえ入れたりしない。気が散るからである。『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン 著 久山葉子 訳、新潮新書)によれば、「スマホには、人間の注意を引きつけるものすごい威力がある。その威力は、ポケットにしまうくらいでは抑えられない」という。「スマートフォンの存在がわずかにでもあれば、認知能力の容量が減る」のだ。だから、その存在を、物理的に目につかないところに置くことで一時的に消し去っている。そうでもしないと、本を読むにも、文章を書くにもまるで集中できない。
自分でも驚くことに、メインで使っていない方のスマホや、タブレットが目に入っても、集中力が落ちるということはない。そちらを触っても、たいして僕の脳は娯楽・快楽を享受できない——つまり、ドーパミンが分泌されない——ことを分かっているのだ。ドーパミンは、娯楽・快楽そのものを享受しているときよりも、それが「期待」できる状況において多く分泌されることが知られている。メインのスマホにはその「期待」がたくさんあって、僕の気を散らしてくる。だから、物理的に目の届かないところに置かないといけないのだ。
スマホがないと不安になる、通知が来ていないか気になる、スマホを手に持つと、世界とのつながりが回復し、安心する……そのような現代人の実態を、〽︎「スマホはもはや俺の臓器」とロックバンドのキュウソネコカミは歌った。身体の外部にあるにもかかわらず、延長された身体の一部として、もはやスマホは存在する。もとはただの道具であったはずなのに、どうして「もはや俺の臓器」といえるまでになってしまったのか。鷲田清一は『つかふ 使用論ノート』(小学館)において、道具を人間が「使用」するなかで何が起こっているのかを次のように述べた。やや長いが引用する。
道具を使う〈わたし〉は、その意識のなかに、その活動のなかに、道具を呑み込み、併合してゆくのである。いいかえると、〈わたし〉はそれまでできなかったことができるようになる。つまりその能力を拡張してゆくのである。
ここで注意を要するのは、能力を拡張してゆくこの過程が、同時に、道具の特性が〈わたし〉のなかに流れ込んでくる逆向きの過程でもあるということだ。
(中略)
使用とは、使用者がみずからの構造を物に押し付ける、つまりそれを統制下に置くということではなく、異なる構造を受け容れることで逆に自己を拡げてゆくということなのである。道具を呑み込んでゆく過程は、道具に呑み込まれてゆく過程でもあるということなのだ。そしてこれが知らぬまに人の「第二の自然」(second nature)となっている。鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.28〜30
道具を使用していくなかで、道具を自分の一部として呑み込む一方で、道具に自分が呑み込まれてゆくという、双方向の結びつきがあることを指摘している。鷲田は杖の使用を例にとり、使用を重ねるごとに、それまで手馴れぬ異物だった杖が、「手の感覚の突端が取っ手との接触面から杖の先へと伸長する」(p.33)ことの経験によって、自らの身体の一部に杖が編入されてゆくことを述べた。包丁においても似たようなことが起ころう。『荘子』養生主編の「庖丁解牛」に出てくる丁さんみたいに牛の解体において、技術を超えて道を識るまではいかなくとも、包丁を使ってものを切ってゆくうちに、だんだんと手指の感覚が包丁の切っ先に移行していくという経験は読者の方もしたことがあるだろう。鷲田はいう。
身体性の拡張とは、じぶんとは異なる物の構造の採り入れであり、それが新たに身体の用法のうちに参入してくるからである。物の構造がわが身のうちに《受肉》してくるのである。
前掲書、p.34
道具はそうして自己と不可分となっていくのである。おのれと深く結びつき、「もはや俺の臓器」となっていく。手放すときに断腸の思いがするのは、本当に自分の身体の一部だからなのだ。そして、もはや身体の一部となったスマホからの誘惑を断ち切ろうとするとき、意志の力だけではもうどうしようもない。ポケットの中にあるだけで存在感と快楽への期待感を煽ってくる存在を意志の力でねじ伏せることなんてできないのである。そこにあるだけで意志の力を消耗してしまい、我々をすみやかに「自我消耗」(0015 自動運転で回す、一汁一菜参照)状態にしてしまうのだ。
だから僕は、スマホが物理的に目に入らないようにする。本を読むとき、立ってぶらぶら部屋の中を歩きながら読むこともあるのだが、そういうときでもスマホが目に入らないようにする。布団の中に隠したりしてしまう。黒いままの画面でも強烈に僕の集中力を奪ってくるのだから、そうやって隔離しないといけないのだ。何かの物語の主人公ならば意志の力で抗うことができるかもしれないが、僕はちがうので、そっと自分でスマホを隠すのである。
一汁一菜においても、意志の力を使ってはいない。そんなものをアテにしていたら続けられないのである。前出の0015 自動運転で回す、一汁一菜でも書いた通り、自分の頭の中で自動的に一汁一菜を作るように仕向けている。ご飯を作るたびによっこいしょと腰を上げているようでは、意志の力をそのうち使い果たしてしまうし、より誘引力の強いハイカロリー、シズル感たっぷりの食事にあっさり流されてしまうのだ。そういったものが食べたくなったときでも、一汁一菜の食事をとりあえず腹に入れてしまえば、欲しいと思わなくなる。回転寿司の初手かけうどんのようなものである(?)。
欲を制するのに、別の欲や目標を用意して上回ることで勝つことを考えるのはあまり上策ではないと考える。欲との争いを避け、無手勝流で挑むのが、おのれのやりたいことをつらぬく秘訣である。ちなみに、この「百汁百菜」を書くときには、まだまだ意志の力を使ってしまっている。これもいずれ自動的に書けるようになればよいのだが。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/01/15分
大根・ネギ・油揚げの味噌汁
大根の梅甘酢漬け
味噌きゅうり
大根はおでん、漬物、カレー、味噌汁に使っているが、全然なくならない。はて、他にどんな食べ方があるだろう?
参考文献
・アンデシュ・ハンセン(著) 久山葉子(訳)『スマホ脳』新潮新書
・鷲田清一『つかふ 使用論ノート』小学館






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