あまり聞かない話かもしれないが、僕は高校の単位を落としたことがある。逆に大学では一つも単位を落としたことはない。
前にも少し書いたとおもうが、僕は高校2年生のときに、のべ半年ぐらい学校に行かなかった時期がある。それで単位が足りないから補習、となったのだが、僕の通った高校は数単位なら落としても進級できるし、卒業もできるから、全ての補習を取って「フル単」する必要はなかった。しかし、教師はフル単するのが当たり前のように考えており、僕に対し全ての補習を受けて単位を取るようにいってきた。教師の評価に響くかどうかは知らない。だが、制度上落としても構わないことになっているのに、落としてはならないという価値観が支配的となっているのだ。これではまるで義務教育ではないか。
結局落としたのは体育の単位だった。柔道をやるという話を聞き、わざわざ道着を出すのが面倒だったので、わざと落とすことにした。
その高校にしては明らかに問題児的思考だったろうが、この経験によって、僕の中の完璧主義を葬り去ることができた。それまでは「いい子ちゃん」でありたいとおもっていたのだが、別に「いい子ちゃん」でよかったことなんてたかが知れている。そのことに気づいたうえで、完璧に仕上げることを放棄するラフな生き方の喜びを知ってしまったのだ。完璧を維持して絶えず自己イメージを保たなければならない、という緊張感に耐える必要がなくなったのである。
(一応)進学校を自称する環境の中で、完璧を放り捨てた人間が紛れ込むことになってしまったのだから、一部の教師からは腫れ物扱いされたが、なかなかそれは愉快な体験だった。言うことを聞かないとわかっているので、もはや何も期待されないし、干渉もされないから、自由に闊歩することができる。同級生に対しては、皆が必死にレールから落ちないように頑張っているさまを、レールから落っこちた僕が一歩引いて下から見つめるという距離感で残りの1年を過ごした。なにせ、本当に勉強ができなくなっているのだから、完全に開き直ってしまったのだ。赤点ギリギリか、本当に赤点を取ったりもしたが、全く気にならない。とはいえ、勉強面では下から見つめつつも、心の余裕という面からは、完全に上から見てしまっていたことを告白する。
(当時)センター試験の自己採点を学校でする、ということになった日があったのだが、そのとき、あまり結果が芳しくなかったのか、涙する同級生の姿を見た。このとき、僕はこの学校や社会を支配する価値観に対し、激しく怒りを燃やしたものだった。たった一度の失敗で、人生が終わるかのように思い込ませる、逼迫し、逼塞した価値観は打破されなければならないとさえおもった。結局それから大学、就活、就職、退職を経て、今の社会を支配する価値観が強固で、頑迷で、文字通り人々の骨身に染みてしまっていることを理解した。到底打ち破ることは困難である。いつまで経っても「無理しなくてもいいんだよ」だの「寝た方がいい」だの「能力主義には落とし穴がある」などという言説がなくならないはずである。世界が本当にその方向に動いていれば、これらの言説は無意味になるのだから。
これらの言葉が響く人もたまにはいるが、結局響くだけで、生き方を変容するにはなかなか至らないのである。むしろ、「わかっているけど、できないんだよ」と反発も招きかねない。僕はもう早くにドロップアウトしてしまったから、守るようなものなんてなにも作ってこなかった。だから身軽に動くことができている。しかし、守らないといけないものがある人はどうする?僕はこの手のメッセージを世に問うとき、いつも引っかかるのは、そのような人々である。それでも、ひとつ言わせてほしいのは、「仕事をしている自分」「家庭を守っている自分」といった、自分の外にあるもの、他者の存在によってその価値が支えられているようなものに自己の存在価値を置きすぎるのはあぶない、ということだ。
知り合いに、病気でこれまで通りに働けなくなった途端、「自分にはもう価値がない」とひどく塞ぎ込んでしまった人がいる。その人は、「仕事をしている自分」に自己の存在価値を置きすぎたのである。そして、それをもう満足に行えない自分には、価値がないのだ、という。これまでずっと真面目に、そして完璧であろうとしていた自分が、崩れてしまったのである。そんな人に対して「無理しなくてもいい」「そんなことない」なんて言葉は傷口に塩を塗るようなものであり、冷たいようだが、つける薬は「日にち薬」しかない(それでも解決は難しいだろう)。
そうやっていったん持っているものを失ったとき、弱いところに放り込まれたときこそ、強く、そしてしなやかに立ち上がることを期待したいものだが、世の中は「弱者」という烙印を押してくる。いやむしろ、自らでその烙印を押してしまい、いっそう「弱者」信念を強化してしまうのである。だが、松岡正剛は次のようにいう。「ありもしない健常性や正常性という平均値が想定されていることが多く、社会の枠組をささえるための常識や良識が斧をふるっている」(『フラジャイル 弱さからの出発』p.018)と。「健常性」や「正常性」なんてものはないと喝破してみせるのだ。松岡は自身の手術経験などから、ほんの少し体内物質のバランスを崩すだけで人間はいとも容易く「健常」でも「正常」でもなくなることを指摘した。そもそもの「完璧」な身体の状態なんてないし、「完璧」な人生もないのだ。ここのところを、頭でっかちになっているから、「完璧主義」はなくならない。とはいえ、「頭でっかち」で済ませられたらどれだけ楽なのだろうか。もはや強迫観念を催すほどに刷り込まれている人もいるほか、性格特性、発達特性としてもっている人もいるのだから。
もうこれは、一度「弱さ」に放り込まれないと理解できないのではないかとおもっている。荒療治で、本当に生命にかかわる場面もあるかもしれない。それでも、宿痾とも呼べる完璧主義に一撃を喰らわせるには、「弱さ」から出発するしかないのではないか。自分を強くみせ、強くあろうとし、実際に強い人もいる(が、だいたいはどこかに弱さを抱えている)。そんな人間の見せる夢には、生存バイアスのドレッシングがたっぷりかかっているから騙されてはならない。
人は砕けるときはあっさり砕ける。もうそのときは思いっきり砕けてしまったほうがいい。砕けて、打ちひしがれて、全身で倒れこむ。砕けないほうが、その衝撃を全て受け止めることになるから、より悲惨だ。そして、砕けた自分を縫い合わせる、編集作業をはじめる。このとき、元に戻ろうとする人がいるが、これは勧められない。「新しい自分になる」ほうへ進まれるほうがよっぽどよい。サカナクションの山口一郎が配信などで「新しい自分になる」と宣言しているのに救われた人もいるだろうが、僕にとっても大きな励みになった。
縫い目があるほうが、金継ぎの器の美を思わせて、深みがある……なんて月並みな慰めの言葉はかけるつもりもないが、いつも強くあらねばと気を張っている人よりも、弱さを知っている人の方が、僕はよっぽど親しみがもてるし、肩を持ちたいとおもっている。

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今回の一汁一菜

2026/02/10分
中華風カレー
わかめ・白菜・ネギの味噌汁
カレーを頼んでも味噌汁が出てくる松屋方式。
参考文献
・松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫







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