人付き合いにおいてたまに観察されるのが、一方がもう一方の影響をただ受けるだけになっているような、非対称な影響の及ぼしあいをしている付き合い方である。「自分がない」というような人にありがちな人間関係で、これといって没頭できるもの、好きなものがないから、他者の趣味に引っ張られていってしまうのである。それでも楽しめているのなら、なんら問題ないのだが、「ただ付き合わされているだけ」の状況に少なからず不満をおぼえていたり、好きでもないものを覚えさせられたり、ぐいぐい押し付けられる状況に疲弊しているような言葉を漏らすようなこともあるから、決して健やかなことばかりではない関係であることが察せられる。僕から見れば、ただ影響を受けっぱなしになって疲弊している「自分」がいるではないか、とツッコミたくもなるのだが、それを押し返すほどの熱量をなかなか持てないのだろう。なにかに熱中したり、強く主張できるのは一種の才能であって、皆がなんでも心の中に熱いものを持っているとはかぎらないことを僕は知った。
趣味がいくつもあって、きっと死ぬまでにすべてを楽しみ尽くすことはできないだろうとおもっている僕からすれば、この「自分がない」という感覚はよくわからない。そもそも、自分というものがあるのかどうかすらわからないと僕はおもっている。しかし、きっと「自分がない」という人にとっては、「自分」なり「主体性」、あるいは「アイデンティティ」というものが絶対的に「ある」ように思われているのではないか、とおもう。
しかし、こうした「自分」だとか、「主体性」、「アイデンティティ」といった言葉・概念に絶えず疑念を提示してきたのは松岡正剛である。また、「主体性」がもつ「力」の果てなき拡張の意志に懸念を示したのはハイデガーであった。ハイデガーは「主体性」を個人に対する概念としてだけではなく、集団、国家に対しても適用しようとした。そして、その「主体性」は拡張の意志を絶えず示し続け、あらゆるものを「力」において支配しようするのだ。そうして広がった「主体性」同士はやがて激突し、恒常的に争い合うことになるという、近代国家の病理を暴き立てた。この議論は現代でも有効であろう。
ハイデガーは集団や国家における「主体性」こそ、より本来的な意味として発揮されるとしているが、個人間においても同様のことはいえよう。「主体性」は絶えず拡張の意志をもっている。これが、あるときは最初に述べたような非対称な影響の及ぼしあいになり、またあるときは、同じ趣味を持ちながらも、小さな違いに目をつけて互いに攻撃しあうようなことになる。互いに違う趣味をもっていて基本的に干渉しない、という場合であっても、たとえば同棲しているカップルなどが、互いにモノがかさばる趣味をもっていた場合、「領土」の奪い合いが発生する。幸い、今はレンタル倉庫サービスなんかもあり、退避場所をつくることもできるからかつてほど熾烈な争いは避けることができる。
だいたい、人間にとって、自分の行いや趣味が相手に移って「影響を与えている」手応えを得ることは本質的に快なのであろう。自分の一部が相手に入り込んだという感覚が自分の生存価を上げることになる、ということもできるか。要するに自分の一部を周囲に撒き散らすことによって、生き(残り)やすくなるのだ。影響を与えられっぱなしになりがちな人は、この「自分の一部を周囲に撒き散らすこと」を苦手としている場合が多いようにおもわれる。「主体性」の衝突を避けようとするために、他の侵入は許す(けれど、けっして快なことばかりではない)のに、自分が他者に侵入するのはいけないことだとおもっている。これは「他人に迷惑をかけたくない」というようなかたちで表面化する。だが、哲学者の鷲田清一はこう言う。
ひとはたとえば老いのなかで、「世話をしてもらうばかりで、こっちは何にもしてやれずに申し訳ない」といった意識にしばしば苛まれる。迷惑をかけてばかりで済まないという意識である。しかし、これはほんとうに迷惑をかけることなのだろうか。迷惑をかけてはいけないと遠慮することのほうが、じつはもっといけないことだったはずではないのか。そしてこういう思考の回路こそが、現在、人の存在をとても淋しくさせているということはないだろうか。
鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.21
人は決してひとりでは生きていけないにも関わらず、都市なんかに生きていると、ひとりで生きているような感覚に陥ってしまう。モノを作る人、運ぶ人、売る人、掃除をしてくれる人、ゴミを運んでくれる人、スイッチひとつでガス、電気、水を使えるようにしてくれている人、そもそもの都市を作った人……そういった、生活を支える人々の気配は抹消されてきた。「仕事だからやっている」というのは一旦隅に置いて、数多くの人々のご厄介になっていることは明白なのに、それを丁寧に飾り立て、包み隠してきたのが資本主義である。人にかける「迷惑」はいまやパッケージ化され、売りに出されるに至っている。こうなったらば、生きているだけで散々人に迷惑をかけているにも関わらず、その気配を感じるのは困難である。もしくは、金を積んだのだから、思いっきり迷惑をかけてやる、といった方向に動くかもしれない。どちらにしても極端すぎる。「お互い様」なんてもはや死語なのかもしれない。
「他人に迷惑をかけたくない」とおもっている人は、この「お互い様」感覚を育んでいかない限り、他者からの一方的な影響をこうむりつづけることになってしまうであろう。人間関係における「お互い様」感覚とは、相手が自分の中に入ってくるように、自分も相手の中に入っていくような関係である。いいことも悪いことも含めてお互いに入っていく。あるときはお互いに「使いあう」ということもあるだろう。相手の狼藉を一方的に許すのに、自分が相手に狼藉をはたらくのはダメだという理由は、論理的にいえばどこにもないはずである。おそらく、感情が許さないだろうけど。鷲田清一はまたこのように言う。
凭れあうということ、他者に依存しなければ生きてゆけないということは、たしかにひとつの貧しさである。あまりにも寂しい、人としての弱さである。けれども、人と人との、あるいは人とものとの、単なる依存ではない使いあい、むさぼりあいのなかには、人としての測りがたい豊饒さもまた深く抱擁されているのではないのだろうか。
鷲田清一『つかふ 使用論ノート』p.23
他人に頼らないといけないのは、たしかに弱さである。できればひとりで立っていたいのに、人は否応なしに他者を必要とする。だが、そもそも他者がいなければ「ひとり」なんて概念は存在しない。どこまでいっても人は他者によって規定されている。この場合の他者は、他「人」だけでなく、周囲のあらゆるモノや、生まれた土地、住んでいる風土も含む。こうなったら、「自分」なんてものが果たして存在するのか、ますます怪しくなってこないだろうか。頭蓋骨に覆われた脳や、皮膚に覆われた身体は、たしかに一つのパッケージングされたモノのように見え、独立して稼働しているようにおもわれる。でも、我々は絶えず呼吸し、周囲となにかを交換している。記憶だって、自分の頭の中にだけあるわけではない。腸内には多数の細菌が住み、僕らの健康を左右さえしている。内にも外にも、他者がひそんで出入りしているのだ。
「自分がない」ことでしんどい思いをしている人に対して、そもそも確たる自分なんてないですよと吹聴して回る僕は悪魔のようだと自分でもおもう。人は持っていないモノを捨てることはできない。一度でも「自分」というものを掴んだ人でないと僕の言うことを了解することは困難なはずである。だけど、天使のように甘い言葉で安住を促す人間のほうが、僕にとってはよっぽど悪魔のように見える。ならば僕は喜んで憎まれ役を引き受けよう。
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今回の一汁一菜

2026/02/13分
白菜・ツナ・落とし玉子の味噌汁
味噌きゅうり
わさび椎茸の佃煮
ツナ缶の油を汁に入れておけば、出汁の素なしでも美味しい味噌汁になる。
参考文献
・轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書
・鷲田清一『つかふ 使用論ノート』小学館








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