子どもの頃から学生時代にかけて、水泳が一番長く続いたスポーツであったが、そこで水着でいるのにすっかり慣れてしまい、人前で上裸でいることの恥ずかしさはあまりない。太っていた時期はさすがに嫌だとおもっていたが、また痩せたので、今でもたぶん平気だろう。だが、この恥ずかしさとはなんだ。そして、なぜ男の僕は外で上裸でいても捕まらないのだ?
アダムとイブも、最初は服を着ないでいたって平気だった。なのに、知恵の実を食べたことで恥ずかしさが芽生えてしまった。服を着ないで、ありのままの姿でいることが悪いことであるとされた。この知恵の実とは文化、ないし常識であり、あれとこれを劃定し、区別する境界線なのではないか。
哲学者の鷲田清一は『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』において、自分の身体イメージを社会的な意味で包装し、強化する手段としての服飾に触れている。ここにおいて服飾は、「イメージとしての身体に切れ目を入れる」(前掲書、p.15)行為であるとされる。全身をくまなく皮膚と毛に包まれた僕らは、服をまとい、アクセサリーを身につけ、化粧などによって特定の部位を強調し、「身体を象徴的に切断」(同、p.16)しているのだ。いくらか物騒な言い方だが、これはまったくその通りであろう。身体的魅力ないし自分そのものを曝け出したいとおもえば、身体のラインが出ていたり、挑発的なスリットの入った服を人は身にまとい、自分を奥に引っ込めたいとおもえば、身体をすっぽり覆うゆるりとした服や、自身ではなく組織性が前に出るような制服をきちっと身にまとう。そこから露出する自分の素の部分=肌の面積をいかに切り出すかというのを、服やアクセサリー、化粧などによって人は自在に操っている。むろん、それには自発的なものもあれば、強制されるものもある。
競泳用の男の水着といえば、だいたいが膝上まであるタイプで、学生時代、僕はもっぱらこれを着用していた。ついでボクサーパンツのような短い丈のタイプ、そして、いまや子どもに大人気の「関係ねぇ」芸人や、穿いていることを「安心」させることで笑いをとる芸人が着用するようなブーメランタイプがある。これも、身体を象徴的に切断する機能を持っており、どこまで自身を曝け出せるかというのが試されているようだったが、部活のメンバーの中では、ブーメランタイプはついぞ見かけなかった。男の場合、最悪ナニを隠していればいちおうそれでよいということになっているから別にブーメランタイプでも構わないはずだ。だが、なぜか僕らはそれを躊躇する。それなのに、あれ以外の部分なら出していいことになっているのはなぜだろうか。小中学校の水泳の授業ではラッシュガードを着用する男子が増えているという。鷲田清一のいいかたを借りれば、男の身体は「公的な部分」がとても広いということになっていたはずだが、これがいまや男女問わず狭くなっていっているのではないだろうか。
生殖や排泄にまつわる部分は、とくに秘匿される「べき」ものとして了解され、法に書き込まれて、我々の常識として刷り込まれている。男の乳首は生殖には関係ないから出していいということか。だが、身体の特定の部分を秘匿しなければならない、そして見られたら恥ずかしいという感覚はきわめて文化的要素に規定されており、われわれが根源的にもっていたものではないはずだ。
鷲田清一は前掲書にて、北イタリアのとある修道院にあるトイレの話を引く。そこのトイレには扉も間仕切りもなく、ただ、入り口には仮面が備え付けられているという。用を足すときに、顔が隠れていて、誰かわからなければ恥ずかしくないというわけだ。ここから、本当は隠す場所はどこだっていいはずだという疑問がもちあがる。「僕が見たいから」だとか、「出しちゃダメな部分を曝け出したいから」そういう話をしているのではない。僕はむしろ、これまで当たり前だとおもっていた信念が破壊されていくことのほうにひどく快感を覚えているだけである。
さて、衣服において大事な部分、プライベートゾーンを切り取って隠さねばならないという文化の軛は、一体なにを意味しているのか。鷲田清一は「ぼくらの社会で、性、あるいは生殖にかかわる部分が過剰に、巧妙に、そして慎重に回避されるのにも、一種「でっち上げ」の面がある」(前掲書、p.39)としている。そして、それは「じつはもっとたいせつなことを隠している」(同、p.40)というのだ。
それこそが「秩序の根拠」ともいえるもので、僕らは人生の中での決まりごと(=秩序)にはどこか根拠があるとおもいこんでいる(もしくは、求めている。だから宗教が生まれ、哲学者は真理に迫ろうとし、科学は発展する)。だが、ほんとうはそんなものどこにもない、という「真に隠されるべきことを隠蔽する装置」(同、p.42)として衣服がはたらいているという。秘するべき部分を文化によって設定し、隠されたものへの憧憬、興奮、劣情を喚起し、意識をそこに釘付けすることで、「ほんとうは隠されるべきものなどなにもない」(同、p.42)ということに意識が向かないようにしているのだ。もはやこう言われてしまえばお手上げである。我々は知恵の実を吐き出す準備ができている。
だからといってポイと知恵の実を出してしまっては今度はお縄が飛んでくる。秩序は守られなければならないということになっている。そう、全ては、なければならない「ということになっている」だけなのだ。だが、世の中には「なければならない」ほうにカッコがついている人が多い。とはいえ、生きているうちは、このカッコを消すことはできない。どうあがいたって僕らは何かに縛られてしまう。ならばせめてこのカッコをちょっと後ろに動かしてみるだけでも、随分と足取りは軽くなるはずだ。以前縛られてもいい「不自由」を選べるのが「自由」だと書いた。これこそカッコの移動なのだ。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/06分
小松菜・トマト・油揚げの味噌汁
なめ茸
京菜と大根の漬物
参考文献
・鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』ちくまプリマーブックス(現在はちくま文庫版あり)







コメント