0087 「あの人の全てを知りたい」は危険です

百汁百菜

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 「好きだから、全部知りたい」というのはあぶない。こんなことを思い始めたら危険な兆候です。今すぐ引き返そう。その先にあるのは幻滅、失望、関係性の破局なのだから。
 友人、好きな人、恋人、有名人、推し……あらゆる人々のこれまで見えなかった部分を見ることができるようになった今、どうせならその人の全てを知りたいとおもうのが人間というものかもしれないが、知れば知るほど「思っていたのと違う」「こんなところ見たくなかった」という部分が見えてくる。推しのことなら全肯定、好きピのことは全部が好きなんて口では言ったりするが、本当に全てが見えたとき、それでも同じ態度でいられるだろうか。

 ミュージシャンを例にとってみると、曲やミュージックビデオ、ライブやフェス出演、テレビ・ラジオ出演、雑誌掲載・Web記事掲載・コラム執筆、X、InstagramなどのSNS投稿、YouTubeの動画・本人による配信と、さまざまなメディアでそのミュージシャンに触れることができる。一昔前なら、本人の声が直接自分たちに向けて届けられるなんてことはありえなかったのに、これが可能になってしまった。これまでは成果物・パフォーマンス、ソーシャルな場面での振る舞いしか見てこなかったのだから、ファンとしてはぜひとも、そのミュージシャン個人に迫っていけるメディアがあるのであれば、深く追っていきたいところであろう。
 が、ここで不用意に踏み込めば、あなたの中のそのミュージシャン像が壊れてしまうかもしれない。見たくないものを見て、「冷めてしまう」かもしれない。どこまで踏み込むかの線引きは、ファンが各々で決めていかねばならない時代になった。不幸にも、とあるきっかけでその人の見たくない部分が見えてしまったのならば、以降はそのメディアは追わない、などといった自衛策も必要になるだろう。どこまでも見えてしまい、どこまでも追えてしまうからこそ、崩したくない、崩されたくないイメージがあるなら、自分で守らねばならない。
 かつては事務所やテレビ局がイメージの統制を明確に行っていたのだろうけれど、個人がそのまま発信源になれる今ではその統制も力を弱めている。これまでは知らないところでイメージの統制がなされてきたのだからファンダムは戸惑うかもしれないけれど、そういう時代だと諦めて自分で線引きしていくしかない。
 ここでその当人に「ミュージシャンなんだから、ぺちゃくちゃSNSで発言するな」とか、「YouTube配信なんかせずに、世界観を守れ」というのはおかしい。ファンの側が、自らそれらに踏み込まないようにすればよい。最悪の場合、あえてそれらをブロックして、作品・パフォーマンスだけを集中的に追うという態度でもよいのではないか。そのミュージシャンに自己発信の態度を改めさせるより先に、自分が先に身を引けばいい。「好きな〇〇さんであってほしい」のであれば、あなたがその人を好きでいられるように努力する……というか、わざわざなんでも首を突っ込まないようにすることである。誰か有名人に冷めたことがある人は「このメディアでの活動はちょっとやだな」と薄々感じていたとしても、わざわざ見に行っている部分もあるのではないか。本人を追わなくてもネットニュース、切り抜きなんかで舞い込んできてしまうこともあるだろうけれど、開かない限り見えない、ゾーニングされた部分にあるのであれば、避けて生きていくことである。「なんでこっちがそんな配慮しないといけないんだよ」と思っているのなら、あなたは立派な「お客様」である。
 残念なことに、こうして「冷めた」らポイと捨てて他に乗り換えるのが容易な時代でもある。ファンの側が見たくないところには踏み込まない自衛策を講じなくとも、「冷めた」あとの受け皿はいくらでもある。まあ、こんな消費先を乗り換える行為は今に始まったことではない。ファン心理なんていつも勝手なものである。

 深みに入り込んだことで見たくないものが見えて遠ざかる人もいれば、ファンなのだから、好きなのだから、全てを知ら「ねばならない」と考える人もいる。その人の好きなものを知ってトライしようとし、考えを取り込んで自分のものにしようとし、その人がおすすめするものはなんでも「良い」はずだと考える。その先にあるのは融合、同一化、あるいはコピーの誕生か。
 自他境界のあいまいな人はこういう事態に陥りやすい。普段から、西洋的な「個人」よりも、東洋的な「縁起」や「全体」をもちだし、人は閉じた系ではなく開かれているものだと書いている僕の主張からすれば、こうした自他「境界」を持ち出すのはそれに抵触しているとおもわれるかもしれないので一言付け加えておくと、僕は個人が閉じた系にあるとはおもっていないが、ものごとが出入り自由な膜によって覆われた一単位としては存在していると考えているということである。
 そんなを出入りするのは空気や水、種々の栄養素やウィルスといったモノだけでなく、コトだっておおいに出入りしているはずである。好きな音楽や食べ物、趣味の話題だけでなく、芸能人や共通の知人のゴシップだって出入りするし、互いに伝え合う感情も出入りしている。そして、これらはたいていそのままでは伝わらない。相手を想うばかりに強く抱きしめたとき、伝わるのは愛ではなく「痛い」かもしれない。人間は相手が伝達しようとしているものをそのままそっくり受け止めることができないようになっている。それは受け止める段階でなんらかのフィルターがかかっている場合もあれば、受け止めたあとで解釈が変わったり、自分の中にひっかかるもの、抵抗するものがあってそれをそのまま受け止められなかったりする。
 自他境界のあいまいな人はここで自分のフィルターや、自分の中でひっかかるもの、抵抗するものがあるにもかかわらず、それらの存在を一旦無視して、積極的な受容に走ってしまうのではないか。「自分がない」(というより、無視してしまっている)から、ひたすらに相手から発せられる影響を取り込もうとする。自分にない(と思い込んでいる)判断基準やものの考えを相手が持っているものによって補おうとする。貪欲に、ときに必死さをもって。
 だが、どこかでそれは破綻する。相手の考えを取り込めば取り込むほど、自分の中にひっかかりが生まれてくる。抵抗するものの存在が浮き彫りになってくる。あるはずのない「自分」の存在にとまどい、もっと取り込みたい、もっと知りたい、もはや相手そのものになりたいとすら考えていたにもかかわらず、それとズレを起こすものの存在を許せなくなる。こうして関係性は破局する。
 安易にコミュニケーションを取れない有名人ならともかく、友人関係、恋愛関係、職場関係等で参照先に選ばれていた人は困惑するばかりである。親切な人ならここで「なにか悪いことしたかなあ」と考えるが、だいたいは「なんか知らんうちに連絡取れんくなったわ」とただただ訳のわからないうちに終わっていく。

 他人の考えを取り入れようとするとき、そこには編集がはたらいていなければならない。何を取り入れるかの選別や実践可能性の検討、取り入れたあとの自分との考えとの調整や、自分なりの解釈を加えて止揚しようとする試みがなければならない。聞くところによると、最近では、本や漫画・アニメにおいて求められるのはもっぱら「考察」ばかりであるという。自分なりの解釈を加えてはいけない、発信者の「正解」に基づいて解釈しなければいけないという強迫的な観念にさえなっているという。
 いやいや、発信側はもちろん「こう読んでほしい」というのはある程度あるだろうけど、取り入れたあとでそれをどうするかは基本的に受け止めた側に委ねているのではないか……なんて、耳にタコができるほど言われているだろうけども、それでも今の人は「正解」にこだわっているという。種々のメディアで一人のミュージシャンがさまざまな顔を見せているのに対しても、「正解はどれだ?」「どれが本当の〇〇さんなんだ?」という困惑を巻き起こしているのかもしれない。また、ある人のことならなんでも知りたいとおもっている人は「正解」がその人の中にあると、そのときは信じてなんでも取り込もうとしているのかもしれない。そうして「間違い」が見つかると、一気に冷める、幻滅する、遠ざかる。どうも極端に動きすぎである。

 結局長く続く関係性は踏み込みすぎない線を引く諦めることによってもたらされる。間違いがありそうなところをわざわざ見にいかない、間違っていても無視(できるものは無視)する、間違いを正そうとしない。
 僕はまな板の分類に結構うるさい。「生で食べ(られ)るもの」と、「加熱調理が必要なもの」でまな板を分けている。でも家族はその分類が違っていて「野菜」と「肉」みたいな分類になっている。これらは厳密には違う。僕はサラダを作るとき、野菜もハムも同じまな板で切る。なぜならこれらは生で食べ(られ)るからである。でも家族はハムは「肉」だからと、肉用のまな板で切る(もちろん、そのときは生肉を切ったあとというわけではないのだが……)、といった具合だ。でもこんなことにいちいち目くじら立てていれば生活は送れないのである。もうあなたはそういう分類でいくんですね、と諦めるほかない。こういうのが、なんでも一緒でなければ済まない人は大変だとおもう。つくづく。

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