当たり前のことだけど、物事はたいていなんでも熱いうちにとりかかるのがいい。例外はひやあつのうどんか、冷やご飯か、カレーライスか。ひやあつのうどんについては前に書いたからそれを読んでもらうことにして、冷やご飯とカレーライスはどういうことか。木のお櫃などに入れて余計な水分が飛んだ冷やご飯はあつあつご飯にないうまさがあるのだ。平松洋子はこの冷やご飯の味を「嚙みしめるうち芯から厚みのある甘さが滲む」(『買えない味』p.106 ちくま文庫)と評した。カレーライスも似たようなもので、あまりにあつあつなときに食べても、味も香りもわかったものではない。暑さの喧騒が少し落ち着いたところでようやくカレーの味と香りが主張をはじめるのだ。熱さは煩さなのだ。
さて、なんの話をしていたんだっけ。そうだそうだ。物事は熱いうちにとりかかったほうがいいという話だったはずなのに、例外の話に逸れてしまった。とまあ、こんなふうに、これは文章だからわざとやっているが、僕はあんまりワーキングメモリが強いほうではなく、会話の中ですぐに「なんでこの話してたんだっけ」「何を言おうとしてたんだっけ」となりがちである。頭の中に思い浮かんだことをいつまでも頭にとどめておけない。一旦思いついたことは、翌日はおろか、数秒後にはもう頭の中から引き出せなくなってしまう。モロモロと、ふわふわと、はらはらと頭の中から消えていく。どれだけヒントを手がかりに粘ろうとも、頭の中にないものはないのだから諦めるほかない。
そこでメモだ。ふっと頭に思い浮かんだフレーズ、思考の断片をとにかくメモアプリに打ち込んでいく。数秒先には消えてしまうかもしれないから、急いで打ち込んでいく。シャワーの間に思いついたら、身体を拭いてパンツとシャツだけ身につけたらすぐにスマホのもとに直行してメモを取る。シャワーを浴びているときから、メモを取る間まで、ずっと同じ内容を頭の中で反芻してなんとか保持する。念仏のようにずっと唱えながらシャワーを浴びる奇人になるときもある。
最初の頃は、頭の中でまとまってもいないのに目に見える形に残す、というのは録音した自分の声を聞くがごとき恥ずかしさもあったのだが、どうせ誰かに見せるようなものでもないのだからと、ほんのワンフレーズだけでもメモを取ることにしている。また、到底表には出せない直截的な物言いや生の感情を書いたって構わない。一旦メモに書き出しておいて、こうして表に出すときになっていくらか表現を丸めたり、置き換えたりすればよい。
世の人がどれだけメモを取っているかは知らないけれど、自分でこれまでに書いてきたメモを眺めてみると、なかなか夥しい数になってきたようにおもう。1年前に書いたようなメモのことなんてすっかり忘れてしまっていて、結局取った意味がないじゃないかとおもえるようなこともあるけれど、こんなもの役に立つ、立たないの話ではない。一旦外に出しておいて、頭の中をスッキリさせているのだから意味はある。それに、使わないメモが大半だけど、随分あとになってから引っ張り出すことだってありえるかもしれないし、実際に何度かそうしてアイデアや思考をサルベージしてきたこともあるから、とにかくメモの海、あるいはプールの水はたっぷり充たしておいたほうがいい。生命の誕生ほどのものではないけれど、とりあえずそこにメモを置いておけば、そしてそのプールを豊かにしておけば、いずれなにか起きるかもしれない。今役に立たなくても、どこかで何かにつながればいいとおもって、今日もメモを取る。
頭の中で完璧に練り上げてからでないと文字に起こさないという人もいる。べつにそれまでの内容をずっと保持できているのならそれでいいと思うけど、頭に思い浮かんですぐの頃にあった瑞々しさは失われてしまっているのではないか。もはや最初に思い浮かんだものとは変質してしまってはいないか。思考の発展ぶり、それまでにたどった経路も見えにくくならないか。結果だけを重視してプロセスが置いてけぼりになってしまわないか、というのは気になる。
そうして頭の中だけで熟成させるというのもまた一つのアイデアの温め方ではあるが、頭の中に保持し続ければ最初はほんの小さな気づきや感情であっても、頭の中でこねくりまわしているうちに尾鰭も背鰭もついて、最初は思ってもいなかったようなこともくっついてきて、次第に妄念、執念といったものさえまとわりついて、いずれは怪物と化してしまう可能性がある。頭の中でこねくり回している限りは無限にその姿形を変えることができるから、いかようにも膨らんでいってしまうのである。これをうまく昇華できればよいのだが、「とらわれ」などというように、ずっと腹の中に抱え続けてリヴァイアサンを飼ってしまっているような人もいるのではないか。
こうならないためにも、たとい負の感情であってもメモに書くなどして身体の外に一旦出してしまったほうがいい。己の考えを冷静になって眺めるためには、メモに書かれた文字を読む自分といったふうに、客体として自分の考えに触れなければならない。外に出してしまった時点で、その人にとっては現実のものとおもえてしまって正視に堪えないかもしれない。あくまで頭の中、腹の中で飼っている限りは現実のものではないから許容できていた、ということもあるだろう。だけど、頭の中にある限りはその襲撃に対してあまりに無力ではないだろうか。なにせ自分との距離がゼロなのだから。一旦メモに書き出して、世界に放り投げてみることで距離を取る、というのはアリなのではないかとおもう。
僕のメモの話から色々と飛んでいったような気がするけど、メモの内容については表に出してもしょうがないし、これからの百汁百菜で小出しにしていくことであるからこれ以上は触れないでおく。とりあえずメモは熱いうちに打つ。メモするまでに消えないように反芻する。メモは些細なことでも生の感情でも臆せず打つ。ルールはこれだけである。ワーキングメモリが小さいのならば、外部記録装置に頼るしかない。ちなみに、いくらワーキングメモリが小さくとも、昨日の夕食はすぐ思い出せる。ご飯と味噌汁。
最後に何でメモを取っているかという話だけど、基本は「Google Keep」に打ち込む。テキストだけだからか、容量制限はないからガンガン打ち込める。閲覧性も、まさにコルクボードにピンで留めたメモのような感じだから本当のメモのような感じがしてなかなかよい。同じGoogleアカウントでログインした端末だと、どれでも閲覧できるから、スマホで打ち込んでパソコンで見る、コピペするのも簡単。問題はそのGoogleアカウントと一蓮托生である点。なんらかの理由でアカウントをBANされたら一巻の終わり。
ある程度まとまった内容だったり、書籍の引用、抜書きは「Notion」で行なっている。この百汁百菜も、一度Notionに打ち込んでから記事に起こしている。データベースの整理、閲覧に優れていて、ただのメモ帳にとどまらない活躍を見せるNotionだけれど、べつに使いこなす必要もないのだから、せいぜい閲覧、分類しやすいメモ置き場として使うぐらいが一般人にはちょうどいいのではないか。
そして、手書き……といってもデジタルの手書きメモは、iPadに入れた「Goodnote」に書き込んでいる。書きやすさ、整理のしやすさのほかに、一度書いた文字を自由に動かせるなげなわツールの出来が大変よい。書き文字なのに動かせるのは、まとまらない段階で書いた文字を整理するのに大助かりである。
関連百汁百菜
今回の百汁百菜

2026/04/13分
ほうれん草・ミニトマト・ぶなしめじの味噌汁オリーブオイルがけ
白菜・ベーコン・玉子の炒め物
明太子
参考文献
・平松洋子『買えない味』ちくま文庫








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