畑のきゅうりが何者かに荒らされているというのがここ2〜3週間で続いた。きゅうりを半分だけかじってあとは打ち捨てられており、その食いっぷりからして何かしらの哺乳類であることは確かだった。畑のある町にはアライグマがよく出ると聞いており、もしうちの畑にもアライグマが来ているとなればワナをかけて駆除しなければならない。アライグマは病気やマダニを媒介するという話もあって、これでは落ち着いて作業ができなくなるではないか……とすっかり萎縮してしまった。
とりあえずきゅうりの周りにはネットをかけてみて、どの哺乳類が来たかを試すことにした。このネットを突破するようならば、うちの畑に来たのはほぼアライグマだろう(ヤツはとても器用だ)し、このネットに阻まれて諦めるようではタヌキ(ヤツはマヌケだ)か何かだろうという寸法だ。
日を改めてネットを確認すると、荒らされた形跡もなく、中のきゅうりも無事だった。先日の被害は、おそらくタヌキか何かが来て、きゅうりを適当にかじったのだろう。ほっと一安心。ワナをかけるとなると色々面倒なことになる(ワナは自治体からタダで借りられるが、その後の処理が面倒)ので、ネットをかけただけで守れたのならば全く問題ない。
しかし、どうしてこんなにも作物被害にカリカリしてしまったのだろう。きゅうりの2〜3本、くれてやってもまた実るうちは問題ないはずだ。もちろん、アライグマが媒介する病気などを恐れたというのもあるけれど、どうしてそこまで必死こいて守らないといけないとおもうようになったのだろう。
農耕によって人々は同じ土地に住まうようになり、私有財産の概念が生まれた。農耕によって余剰が生み出されると、それを貯えるという発想が生まれ、また、非生産階級をその余剰で養えるようになったから、社会の分業化がいっそう進み、職人や軍人、支配者層といった社会階層が生まれた。農耕がもたらすカロリーはすさまじく、人口はますます増えていった。人口が増えればそれだけ考える頭が増えるということであり、技術はますます進歩した。その一方で人口が増えれば諍いも起こる。それを統率するリーダーや仕組みが求められるようになった。また、人口が増えれば、隣とウチの境界は近くなる。「あれは自分のモノだ」と線引きをして守りたくなってくる……。
明日の食糧が取れるかわからないそれまでの狩猟採集生活から、収穫まで漕ぎつければ食糧が得られ、余剰すら生まれるようになった農耕生活への移行によって、人々は未来を思い描くことができるようになった。そして、「明日の我が身」とその我が身を守ってくれる財産を守る欲が生まれてきたのだ。その欲が、僕に畑のきゅうりを守らせしめたといえるだろう。
ほとんどモノを持ち歩けない狩猟採集民や、持てるモノに限度がある遊牧民とは違い、土地にモノを貯め込めるようになってからというもの、人はモノに囲まれることを快としてきた。それらは明日の自分を保証してくれるもののように感じられるし、また他人が持っていないモノを持つことによって優越感に浸ることだってできる。モノは自身の社会階層をアピールする道具にもなった。大量消費社会の到来によって先進技術国ではますますモノは安価に、大量に手に入るようになり、「消費者」を大いに満足させた。だが、そのために消尽されてゆくものがある。ようやく現代になってそちらに目線が注がれるようになった。
大量消費社会へのアンチテーゼとして、モノを持たないライフスタイルが注目されるようになった。ミニマリストの登場だ。しかし、そのライフスタイルだって結局大量消費社会の上にどっかり座り込んでいるだけではないか? というのはこの記事(0089 ミニマリストは現代の覚者か?)で少し書いておいた。とくに都市部に住むミニマリストに言えることだが、モノを手放せたといいつつも、都市機能にすっかり依存していたり、結局のところ、他者によって生産・運搬されたものを消費することでしか生き永らえることができず、大量消費社会の恩恵に浴するしかない。
もはや今のわれわれは「この身ひとつ」で生きていくことができない。農耕に端を発したモノの横溢と、守ってくれる土地の存在によってすっかり牙を抜かれてしまった。家を捨てて車に住むという、現代版遊牧民的な実験をするミニマリストの話を耳にしたこともあるが、その領域にだって踏み出せる人は決して多くない。
僕自身はというと、畑に縋っているし、また畑で生み出されたものだけではとても命を繋いではいけないから、大量消費社会が生み出す恩恵にも浴している。とても「この身ひとつ」で生きているとは言われない。また、畑の実りは守らねばならない私有財産として外敵を遠ざけるように僕を動機づける。野生動物や虫たちからすればそんな私有財産なんて概念、知ったこっちゃない。ただ人間だけが持つ権利の概念が、彼らを畑から追い出すために行使される。
どれだけ手放したつもりでも、持ったまま離したくないものというものが人間にはある。僕は今の社会での成功だとか、そういうものに対する執念はとっくに投げ捨てられた(というか、そもそもほとんどなかった)のにも関わらず、畑をやるようになったら、そこの野菜が荒らされないかとか、これまでになかった方面で執着する心が生まれた。何かを捨てれば、また今度は何か大事なものが現れてきて、それを守らないといけないとおもうようになる。もはや何かを持つことを諦められないのだとしたら、持っているものはそのままに、それにこだわらないであっさりとしていられるような心持ちにはなれないだろうか。ちょうど、荘子や老子が示したような考えだ。
畑の野菜は畑の野菜で僕が持っているけれど、それに執着しないような心でいたい。仮に持っていく動物や虫がいれば好きに持っていけといえるような、そんな恬淡さが今の僕の理想だ。とはいえ、やっぱりアライグマは御免被りたい。マダニに刺されて死ぬというのは嫌だ。ああ、やっぱり生にまだしがみついている。
この過程で、人は「持っていないものを捨てることはできない」ということにも気付かされた。それについてはまた今度話してみようとおもう。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/05/05分
大根・舞茸・油揚げの味噌汁
わさび椎茸の佃煮
参考文献
・ジャレド・ダイアモンド(著) 倉骨彰(訳)『銃・病原菌・鉄』草思社










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