0089 ミニマリストは現代の覚者か?

百汁百菜

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 目覚めた人間は、たいてい捨てるか集めるかのどちらかに走る。前者でいえば、とにかく身近なものを手放していく。目に入るだけでも思考のノイズになると徹底的にモノを減らして、生きていくのに最低限のモノだけを選び取ろうとする。一方後者は、ウイスキーに目覚めたといって各地のウイスキーを蒐集しゅうしゅうしたり、読書に目覚めて読みかけの本もそのままに次の本を次々積み上げる。また、自分らしさ、自分の「好き」を表現するために、使わないけど持っておきたいもの、飾っておきたいものなども買い集めてモノに囲まれた生活を送る。前者はミニマリスト、後者は蒐集家、あるいはマキシマリストと呼ばれるような人々である。
 無限に膨張する資本の力とモノがあふれる大量消費社会を前に、それに反旗を翻し、無駄を削ぎ落としてよいと思うものだけを選び取ることが「自分らしさ」なのだというミニマリスト的な生き方が称揚されがちな世の中ではあるが、マキシマリストにあっても、自分を取り囲むモノを通じておのれのストーリーを立ち上げ、「自分らしさ」を表現しようとしている。ミニマリストには無駄におもえるようなモノが、マキシマリストにとってはおのれと不可分のモノであることは多い。
 一見対照的に見える両者だが、結局はモノを起点に「自分らしさ」を問うているという意味では同質のものである。『荘子』の郭象注には次のようにある。中島隆博の『荘子の哲学』からの引用となってしまうが、以下に示す。

 ここで「斉しい」というのは、形状が斉しいとか、物差しが同じということではない。縦横・美醜・恢恑かいき憰怪きっかい〔怪物的なもの〕がそれぞれ、自分が然りとするものを然りとし、自分が可とするものを可としているのであって、形はそれぞれまったく異なっていても、性は同じように得ることができているということだ。だから「道は一に通じている」と言うのである。

郭象『荘子』斉物論篇注 引用は中島隆博『荘子の哲学』p.35 講談社学術文庫より

 極大と極小という相入れないはずの二つでも、その性を同じように得ることができるとし、「道」の前には一つであるというのだ。結局モノの前にはミニマリストもマキシマリストも同じ。その表現方法が違うだけなのだ。

 だが、ミニマリストとマキシマリストに世間が与えるイメージは異なるようにみえる。かたや修行者や哲学者といった(一見)高尚なイメージが付与される一方で、かたやストーリーテラー、あるいは世界観の表現者と呼ばれるようなこともあるが、消費社会の奴隷、欲望の権化かのような扱いをされることもある。日本においてマキシマリストの肩身は若干狭そうにおもえる。
 モノに囲まれた豊かさよりも、モノが削がれた中で精神の豊かさを味わうのが「覚った者」の境地であるというのが東洋における古くからの見方で、「覚り(悟り)」のためには「捨てる」ことを求める考えは多い。仏教のはじまりも捨てることからはじまっている。釈迦は菩提樹の下で一切の煩悩、迷いから解放され、苦を脱して自由になった。釈迦の教えでは、苦にまみれたこの世に二度と生まれ変わらないで輪廻転生から解脱することが目指された。この世を捨てるということは大前提で、それなくして話は始まらないのである。
 禅も浄土系も、また捨てることを常に話題としてきた。禅においては、中国における禅宗の六祖が一人、慧能が『金剛経』における「応無所住而生其心」という一節を聞いて悟ったという。これは「まさに住する所なくしてしかもその心を生ずべし」と読み、何か一定の場所や事柄にとらわれるのではなく、無心または無念であれということである(参考:鈴木大拙『完全版 日本的霊性』P.337〜338)。また、道元は悟りの境地を「身心しんじん脱落」だといった。自我を捨てたところにそれはあるといい、そしてすわることそのものが悟りであるとした。禅をするにはこれまでの考えを徹底的に捨てることが求められる。そしてひたすら坐る。このように、一度虚飾を剥がねば何も見えてこない、というのは日本人なら諒解しやすい考えなのではないか。
 というのも、日本人の生活がもともと禅的であったからだ、と鈴木大拙はいう。禅はそれが生まれた中国ではうまく育たなかったものの、日本に持ち込まれて大いに花開き、庶民の生活にまで染み込んだのだ。こうした禅的な感覚がベースにあることで、ミニマリスト的な感覚は日本人にフィットしやすいのではないかといえる。
 浄土系の考えであっても、捨てることが求められる。妻帯肉食することもある浄土系の教えのどこが「捨て」ているのだとおもわれるかもしれないが、「南無阿弥陀仏」の念仏の前にはまさに自らの全てをなげうつことが求められているのだ。人が念仏を唱えるとき、それは自らの意志で口にしたものではなく、阿弥陀仏の願いによってもたらされたと考える。阿弥陀仏の前には自らの意志は捨てねばならない。また、救われようと善行を重ねることも否定され、ただ念仏だけを選び取らねばならない。そして、念仏を選び取るということは、阿弥陀仏による救い以外を捨てるということである。
 仏教外でも、『老子』の中では「無為自然」「足るを知る」「かつぎょくいだく」「学を絶てば憂いなし」「多く蔵すれば必ず厚く失う」など、捨てることについての話題が多い。こうしてなにかと東洋哲学は捨ててきた。物質、欲にまみれた苦そのものであるこの世を捨てるのが覚り(悟り)であるとみなされてきたのだから、ミニマリスト的態度が幅をきかせるのも当然のなりゆきであろう。資本主義の「し」もない時代にあってもこの世は苦だと言われてきたのなら、いったい現代はどれだけの苦が満ちているというのだろう。それらを毅然とした態度で一蹴し、捨てることで自らを体現せんとするミニマリストは現代における覚者のようにみえてくる。

 ただ、僕はミニマリストを自称する人々の全てが本当に覚者であるかどうか、というのは疑わしくおもっている。いや、モノがない生活が大変軽やかなのは間違いない。多くを持たないことで連鎖していく「あれも欲しい」を断ち切ることもできるし、そもそも持っていないのだから失う苦しみも少なくて済む。なによりモノが溢れる世に背を向け、世間の流れに気を取られないというのは痛快さと爽快さがあり、「自分を確立した」という気持ちにさせてくれる。だが、どうもミニマリストには慢心がないだろうか?というところが気になる。
 なにも全てのミニマリストがそうだと言いたいわけではない。けれども、ミニマリストを自称する中で、冷蔵庫を持たずにコンビニに通ったり、洗濯機を持たずにコインランドリーを使ったりと、都市機能や周囲に依存しているのに、自分は捨てることができてかつ、モノに頼らず自立できている、と満足しているような人もいるのではないか。また、資本主義、大量消費社会への反駁のように見えて、その所産である技術を甘んじて享受している点はどう考えているのだろうか。むろん、「あるから使う」のはわかるし、こうした技術をあてにしないと満足に生活できないのもわかる。それに、なんでもかんでも手を出すのではなく、一つでマルチな活躍ができるガジェットなどを選んでいるのもわかる。しかし、そうしたガジェットが生まれ出る背景には結局大量消費社会がある。
 どれだけ捨てようとも、結局のところ、人はなにかに頼らないといけないのだ。都市機能やインフラ、設備を整え、それをうまく回してくれている人がいて、ミニマリストが食べるものを作ってくれたり、運んでくれる人がいる。ミニマリストが選ぶ優れたガジェットの下にはたくさんの屍が転がっている。これらを無視して「捨ててやったぜ、せいせいした」とひとり満足するだけのミニマリズムなら僕はまったく支持できない。

 あらゆるモノを捨ててきた東洋哲学だが、捨てて終わりだったわけではない。むしろ捨てたあとに待つ世界は一切の分別のない、個を超えた「超個」の世界がある。そこではあらゆる矛盾は矛盾のまま包摂されて矛盾でなくなる。己が仏で仏が己、慚愧が歓喜で歓喜が慚愧といった矛盾したものも、覚りの先には全て包摂されてまた矛盾せずに存在する。鈴木大拙はこれを捉えうるのが「霊性」だといった。いったいおまえは何を言っているんだとおもわれても仕方のないような、まったく論理的でも科学的でもない世界観だ。現代人にとっては想像するのはおろか、こうしたワードを耳にする、目にするだけで宗教アレルギーを起こしてしまいそうな話題かもしれない。だが、ミニマリズムは果たして、捨てた先にあるものを見据えているのかどうかは問われなければならない問題である。

 ミニマリズムの先を見据えていた人間として、清沢満之きよざわまんしについて触れないわけにはいかない。清沢満之は江戸の終わりごろに生まれて明治に活躍した僧侶で宗教家である。「精神主義」を唱え、精神のはたらきによって外物(物質)を自由に変転させれば、惑わされたり、苦しんだりすることはないといった。そして、この精神主義に基づく活動が「とりもなおさず、競争相奪の害を防ぎ、奢侈しゃし贅沢の弊を救う」ともいった。要するに、万物は一体であり、そこに価値の差などないのだから、他者とも争う必要はないということである。もし他者と衝突しそうになっても、そこは互いに精神を自由に変転させることによってそれは回避できるとしている。
 この「精神主義」には絶対無限者=阿弥陀仏という立脚点が必要だとされ、これを悟ることが前提におかれている。その上で、絶対無限者への絶対的服従のもとに、精神の自由を行使できるようになるというのである。人はなんの支えもなく自由であることはできない。ただ阿弥陀仏のもとにおいて、人の精神は自由であることができるのだという。
 清沢満之はミニマリスト、しかも相当に徹底したミニマリストであった時期がある。もともとはそれなりに贅沢な暮らしをしていたのにもかかわらず、ある時から塩を断ち、煮炊きをやめてそば粉に水を混ぜたもので三食をすませるような生活を送っていたというのだ。その生活の中で清沢は仲間たちと教育改革に乗り出したのだが、あまりにもラディカルすぎて受け入れられず、無理が祟って肺結核を発病、療養生活に入った。こうして徹底的に自己を追い詰め、「自力」の限界を悟ったのち、清沢は他力信仰へと入っていったという(参考:橋本峰雄(編)『日本の名著 43 清沢満之 鈴木大拙』収録「精神と霊性—仏教近代化の二典型」中央公論社)
 もちろん、現代のミニマリストに清沢のような苦行をせよというわけではない。第一、もはや苦行をする必要もない。スマホひとつで十分に楽しめる世の中になっているのだから。
 清沢は、どんな境遇にあっても面白さを発見しようとする態度があれば不満はなくなり、十分な満足を得られるといったが、そうした態度は現代のミニマリストにもみられる。ないならないで構わないし、あるものでどうにかしようという気持ちが生まれてくる。
 しかし、モノを減らして軽やかになり、妄執を断ち切って得た「本当の幸せ」なるものが「お金が増えました」ではいかにもしょっぱい。また、モノの多寡にこだわっていては、まったく覚りとは程遠いところにあるようにおもえる。最初のほうに書いたとおり、ミニマリストもマキシマリストも、モノを介して自己を表そうとしている点ではなにも変わらないのだから。

 ミニマリストは精神の自由を本当に獲得できているのだろうか。むしろミニマリストでなければならない自分に縛られてしまっているのではないか。発信することによってミニマリストたらんと自己を律している人もいるときく。なかにはイキイキとしている人もいるから、その人はミニマリズムを十二分に満喫されたらよいとおもうけれど、精神を痩せさせてまでも無理に続けるミニマリズムならば、それこそ手放したらよいのではないかとおもわないでもない。
 親鸞は悪は悪のまま抱えて悟りにいたった。物欲、妄執、執着を見ないふりせずに、それらを抱えたまま向き合うという態度があってもよいとおもう。一度は清沢のように極端に走る時期があってもよいかもしれないが、そこでなにかを掴んだのなら、それを俗の世界に持って帰ってきて、絶えず自己と周囲との調整をおこない、自らの生き方として鍛え上げていく。ミニマリストはミニマリストなんだから、というような奥行きを欠いた生き方ではない、その人らしさがそこでようやく立ち上がってくるのではないかともおもう。

 さて、一汁一菜は果たしてミニマリズムかと言われれば、そうした一面はありつつもそうではないといえる。数多ある食の選択肢を切り捨て、同じ食事の型を守り続けるというのはミニマリズム的だ。でも、汁とおかず、そして主食といった食事の型なんて変形が容易だし、破ることだってふつうにある。それに、僕は基本的に「平日の夕食」だけが一汁一菜なのであって、その他は別のものを食べている(朝食はシリアルが多い)。まあ、一汁一菜はともかく、僕自身に関しては全然ミニマリストではないといえる。本もガンプラも色々持っていて部屋はモノに溢れているわけだし。また、この百汁百菜があるから一汁一菜をやっているわけでもなく(むしろ逆だ)、それに縛られているわけでもない。
 しかし、土井善晴と釈徹宗の対談で、土井は「一汁一菜は『南無阿弥陀仏』だと思うんです」といっていた(参考:『別冊太陽』297 「土井善晴 一汁一菜の未来」平凡社 対談自体は『Fole』2020年10月号のもの)が、僕はこれに深い共鳴をおぼえる。味噌(汁)の前には、美味しくしようだとか、飾り立てようだとかそういったはからいが取り除かれてしまう。自分でなんとか工夫を凝らしていいものにしよう、自分へのご褒美にしようだとか、そういったことは一切考えない。ただ味噌の作る味に、食卓に並ぶものの味に任せてしまいたくなる。それは僕が庭と畑で育てている野菜にもつながっている。僕にできるのは肥料をやって、剪定するだけ。それ以上のことは何もできない。任せるしかないのである。こうした他者に包摂されているという感覚はそれだけで幸せである。自分がやってやったんだとか、自分の足だけで立っているだなんていう、コジンコジンした考え方は西洋のものである。ここは日本だ。日本的霊性を起動させて自分を支えてくれているものへのまなざしを注がねばならない。

関連百汁百菜

今回の一汁一菜

2026/04/14分

・ブロッコリーとキャベツの味噌汁
・ネギ玉子焼き
・大根の醤油漬け

参考文献

・鈴木大拙『完全版 日本的霊性』角川ソフィア文庫
・中島隆博『荘子の哲学』講談社学術文庫
・野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫

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