出汁は世界で一番簡単なスープだという話がある。昆布や鰹節や干ししいたけなど、乾物を水につけるか煮出すことでスープになる。そしてそこに味噌を溶けばもうそれで味噌汁の出来上がり。これ以上の作為はいらない。
だが、世の中のスープを眺めてみれば、ありとあらゆる具材を煮込み、時間も手間もかかったものばかりである。普段キューブを溶かすだけで簡単にコンソメスープを食べていればまず気づかないけど、あのスープにはとんでもない手間がかかっている。野菜や肉、骨などからまずブイヨンを取ったら(この時点でもうすでに手間がかかっている)、牛ひき肉や香味野菜に卵白を混ぜたものをブイヨンに浮かべて煮込んだら、穴を開けてさらにじっくり煮込み、そこから出てきた灰汁の取れた澄んだスープを取って、さらに濾した上で飲むという、極めて手の込んだ贅沢なスープがコンソメである。コンソメはフランス語で「完成された」という意味であり、もうそのスープ自体が一つの料理なのであって、日本のようにコンソメを出汁の素扱いして、具材をさらに加えてポトフのようにして食べるのはフランス人的にはありえない話であろう。だが、ここに日本人の食に対する貪欲さが見て取れ、また「完成された」ものを破壊する痛快さも感じられなくはない。
西洋の料理はやはり、食材に手をかけてこそというものが多い(地中海料理など例外もある)。ここにはキリスト教の「地上の生き物は人間のために神がお造りになった」という教えが滲んでいるようにもおもえる。そうした、神が人のために造りたもうた素材を存分に利用し、人の手を加えて美味いものへと変えてきた。
一方、今の日本の食はともかく、和食はできるだけ食材に手を加えないことを良しとしてきた。それが成立するには新鮮な食材が豊富であることが必要なのは言うまでもないが、あらゆるものにカミが宿っているという考えから、その恵みへの感謝が食材への作為を控えさせたのではないか。また、発酵調味料の駆使によって、食材そのものは淡白であっても調味料のはたらきで複雑な味を生み出せたというのも、食材へ手をかけないことが良しとされる考えにつながったのであろう。
たとえば、ナスを焼いて醤油をかけただけの料理のようなものが「シンプル」扱いされているものの、味わいはいたって複雑。鹹さと甘み、苦みと旨みが複雑に入り混じっていて、焦げた醤油の香りも味わいに一層の深みを与える。すでに製造プロセスの中で複雑な味わいを湛えた発酵食品のおかげで、我々は複雑な工程をすっ飛ばして深みのある味わいにありつけるのだ。
去年(2025年)からは、周囲から「味噌名人」と呼ばれるほど味噌づくりの名手となった叔母の手引きで味噌を作るようになった。その模様はこの記事(0006 味噌づくり2年生)に書いている。この製造プロセスでわかるのは、人間が工夫できることなんてそんなにない、ということだ。ただ、ふかした豆をよく潰し、米麹とよく混ぜて空気が入らないように容器にみっちり詰めたら、あとは塩なり酒粕でピッタリ蓋をして麹菌がはたらきやすい環境を整えるだけなのである。人間が骨を折(れ)るのはその最初だけ。あとは樽の中で微生物のはたらきに任せるほかない。
食材の新鮮さと、食材そのものが持つ味わいも、微生物のはたらきで生み出される複雑な味わいも、人の手を加えようとしたって限界があるということを日本人は知っているはずである。せいぜい人にはその旨さを引き立てる手助けぐらいのことしかできない。もちろん、その「手助けぐらい」には無窮のバリエーションがあり、それを極めるためにはやはり修行が求められる。素材を殺さずに引き立てる職人の仕事には、そもそもの素材を選ぶ目利きと、それにどこまで手を入れるかの判断力、そしてそれを実現できる腕が必要なのであって、到底素人のかなうものではない。
とはいえ、自身が普段口にして満足できるほどの料理ならば、特別な技術を習得しなくても、発酵食品などの力も借りつつ十分に作れるはずである。味噌汁はまさにその極地といえまいか。味噌を出汁に溶くだけなのだから特別な技術を要しないし、味噌が持つ力を借りることであらゆる具材の味がピッタリ決まる。野菜はもちろんのこと、肉、魚、果てはあんころ餅まで味噌汁に入れたって味が決まる(さすがにフルーツやケーキはダメみたい)。
味噌汁は人の限界を教えてくれる。最後はどうしたって味噌のはたらきに任せるしかない。しかも、美味しくしようと手を加えるのがバカバカしくなるほど、手を加えずに作ったって美味しいのだ。人は味噌の前に兜を脱ぎ、「今日も美味しくしてください」と頭を垂れるしかない。
味噌汁はそうでいて決して気取らず驕らず、本当は主役を張れるのに定食なんかでは脇に控えたりしていて、奥ゆかしさを忘れていない。また、人をして緊張せしむるのではなく、むしろ緊張を解きほぐしてくれるのが味噌汁である。これほどにホスピタリティの高いスープがこの世のどこにあろうか。味噌汁が堅苦しいとおもったら大間違いなのである。
だからこの味噌汁に支えられている一汁一菜だって決して堅苦しくない。身体のどこどこがブレたから減点だなんてことは決してありえない。数ミリはみ出たから失敗だとかそういうのもありえない。ただ泰然自若、悠然自得に構えている。これにひとたび包まれれば逃れられないという人がいる。せこせこ、ちまちま、いらいらする世を忘れさせてくれる。こうして味噌汁の前では、人はついつい心の警戒を解いてしまう。
なにをそんなにムキになってやろうとしているのか、なんでそれにしがみつかないと生きていけないと考えてしまっているのか、なんで一番を決めないといけなくて、それ以外は全部ダメだとおもってしまうのか、味噌汁は静かに人に自省を促す。
パンチのある食べ物も、たまには脳に刺激を与えるという意味でよいかもしれないが、それに依存してしまえば、結局は一緒に悪さをする友達のようになってしまって、味噌汁のように静かな時間を人にはもたらしてくれない。むしろより強い刺激を求めるようになってしまう。それは常に身体を緊張状態にしてしまい、けっして心も休まるときがない。
味噌汁ならそれを解いてくれる。帰る場所をつくってくれる。また行ってこいと背中を押してくれる。一人で味噌汁をすすったって、味噌の中にはあらゆる生命が生きている。現代社会はあなたを独りだと勘違いさせるが、味噌汁はけっしてそうではないことを教えてくれる。別に何らかの教えを学ぶ必要なんてない。ただ味噌汁を飲むだけでいい。
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今回の一汁一菜

2026/05/01分
小松菜・ぶなしめじ・ソーセージと落とし玉子の味噌汁
なめ茸
わさび椎茸の佃煮







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