もう意地を張るのはやめて、AIに対しては素直に兜を脱いでしまって、それから話を始めたほうがいいのではないか。そう思わされた一冊であった。AIには心がないだとか、肉体がないだとか、嘘をつくだとか言ってみて人間の優位性をどうにか堅守しようとする態度に、もはや意味はないようにおもえる。
『AIという鏡』は、仏教学者の父と数学者の息子が対談形式でAIのこれからと人間の心の持ちようについて語る縦書きの「対話の部」と、数学者の息子が「対話の部」で言及されたAI技術について説明する横書きの「解説の部」からなる。前から開けば「対話の部」で、後ろから開けば「解説の部」からはじまる、親子背中合わせの一冊ともいえる。
「対話の部」では、AIの技術進歩とともに、人間の知性とはなにかという問題を、AIを「鏡」にすることで理解できるのではないかという希望が見えてきた一方で、AIの存在によって知性の正体を暴かれ、人間が優位性を失った先に我々はどう生きればいいのかという心の持ちようを、仏教を梃子に親子の対話の中から考えていく。その後に進む「解説の部」では、数学の理論を哲学、人文的な文脈と卑近な例えに落とし込んでくれているので、数学センスゼロの僕でもとりあえず飲み込むことはできた(理解できているとはおもわない)。
この一冊を読み通してみて、僕は最初に述べたような心境に至った。もうAIに対しては一度降参してしまって、それから話をはじめよう、と。
心や意識、肉体の存在や、ハルシネーション(ないものをあると言うこと)を起こさないといった点を挙げて、AIに対する人間の優位性を主張するむきがあるが、もはやこれらによって人間の優位性を示すことなどできないだろう。
まず、心や意識についてであるが、自然な応答をこなす知性を目の前にしたとき、それが人間のものか機械のものかを、人は見分けることができないのではないかという考えがある。20世紀の数学者、アラン・チューリングによって提唱された「チューリングテスト」は、ひとりの人間の審査員が、カーテンの先にいる二人と対話するのだが、そのどちらかが人間で、もう一方がコンピューターとなっている。人間の審査員は質問を通してどちらが人間で、どちらがコンピューターであるかを判別しなければならないのだが、カーテンの奥からの応答がどちらも自然なものであれば、もはや人間にそれを区別することはできないのである。
斎(引用注:佐々木斎生のこと) ……チューリングテストの非常に斬新なところは、知性を「外に現れる行動や応答だけで判断する」という点です。彼は、知性の有無という問題はその内面的な思考や感情にまったく依存せず、実際に機械が人間のように振る舞うことができるかどうかにかかっていると考えました。つまり、もしコンピューターが人間のように自然な対話を行うことができるのであれば、いわゆる「魂」や「意識」のようなそれ以上の超越性を仮定せずともその機械は知性を持つとみなせると指摘したのです。
佐々木閑・佐々木斎生『AIという鏡』対話の部 p.30
人間が目の前の対象物に対し「これは知性を宿している」と考える際、「魂」や「意識」の存在を仮定する必要はないというのである。これは人間が人間を見るときも同じである。その人に果たして意識なるものが存在するのか、魂はあるのかなんてことはいちいち考えない。自分の応答にもっともらしく応答があった。ただこれだけで人はそこに知性を見出す。意識の存在など、自分にある(と考えられる)から相手にもあるだろうと勝手に推論しているだけである。そんなものを前提に置かなくても、人はAIとの対話においても知性を見出し、もはや「それは人間なんだ」と言うしかなくなってくるだろう。
閑(引用注:佐々木閑のこと) ですから、もしAIが人間そっくりに振る舞って、人間のように知的な会話を完璧にこなしたとすれば、つまりチューリングテストに合格したとすれば、その時点でサイエンス的にはもう「そのAIは人間なんだ」と言う以外にない、というわけですね。
前掲書、対話の部 p.091
次に肉体についてであるが、これは機械の体を得て現実に干渉できるようになるフィジカルAIなるものが登場することによって、AIと人間の区別はつけられなくなるだろう。いやいや、それでもAIには肉体を起点にする五感や種々の欲がないでしょう、と言いたくなるのはわかる。ただ、我々が感じている五感なるものがそもそも幻想だったとしたら?種々の欲だって電気信号の輻輳にすぎないのでは?と考えはじめると、AIと人間の質的差などないように感じられてくる。
斎 この五感の創発は、システム論に近い話だと思います。脳というシステムの中での電気信号の処理の、効率化の問題だと思います。たとえば目で見て処理するような電気信号の体系は、一括して同じような処理方法を当てはめた方が生存競争で有利なことが多いでしょう。そういった統合処理のパッケージがあった場合に、それらをまとめ上げて、その処理体系のことを「視覚という独立した知覚領域があるのだ」と錯覚するようになったのかもしれません。
前掲書、対話の部 p.101
斎 問題はAIにそのような感覚ごとの統合が可能なのかという点ですが、脳で処理される電気信号の段階で考えてみれば、それはすでに五感を統括した状態です。ここにAIと脳のシステムの質的な差はありません。ただのパラメータ、つまり数字の集まりの間の、法則性や効率性を論じる問題に帰着されます。(中略)そして最終的には、AIが五感を持ったと、外から見てそう認定できる状態にまで到達するでしょう。
前掲書、対話の部 p.103
そして人間には感じられない不可視光線や不可聴域を超えた感覚を持ったAIが登場して、世界を見る「望遠鏡」のように機能し、人間が規定する「自然さ」を超越した感覚がもたらされる未来があるのではないか、と著者たちは想像している。
最後にハルシネーションについてであるが、人間だって思いっきり嘘をつきまくるし、幻覚だって見るし、夢に起こったことと現実の区別がついていないということだってある。AIは人間に仕えるもの、という意識があるから嘘をつくと咎めたくなるのだろうが、ここで話題にしているのは、単にそれぞれの性能、能力を比較する場合についてなので、そういったAI=奴隷的な意識は一旦隅に置かねばならない。それに、もはやAIの要請によって人間のほうが必死に資金調達とデータセンター拡大に走っているのだから、どっちがどっちに仕えているのかはわからない。もはやAIに対して人間の優位性を主張するのは苦しくなってきている。ならばいっそ、兜を脱いで張り合うのはやめて、「AIを鏡」にして人間の知性とはなにか、という謎を解く方向に向かえばいいのではないだろうかという話なのである。
AIは「トランスフォーマー」というモデルを得たことによって、とうとう概念を扱えるようになっている。「トランスフォーマー」といっても超ロボット生命体のことではない。AIは概念を人間にはもはや想像不可能なベクトル空間に埋め込んで、その位置を適宜移動させながら、概念同士の近さ(および遠さ)を計算することで、ひとつの概念に結びつく種々の事象や付属概念を理解するようになり、文脈を維持して物事にあたることができるようになった。また、ひとつの概念が与えられれば、それを文字、画像、音声などを横断して「トランスフォーム=変換」できるようにもなっている。
そして、その中核にあるのが、「アテンション機構」と呼ばれる、概念ベクトルの操作である。これまでのモデルでは、長い文章を生成させていると次第に最初の文脈が失われていってしまう問題があったところを、「アテンション=注意」を施すことによって、最後まで文脈を保持したまま自然な文章を生成できるようになったという。
このモデルは、たとえば「でんわ」という単語を、「で」「ん」「わ」という単なる文字の並びとしてではなく、「電話」という概念そのものとして捉え、抽象的な「概念のベクトル空間」の中に埋め込みます。ただし、このベクトルは固定的ではなく、周囲の入力情報に応じてその位置を変化させながら、関連する概念や文脈と結びついていきます。たとえば「でんわ」は「Phone」という概念とこの空間内で結びつきやすいという学習結果から、英語への翻訳という「変換」が可能なのです。
この繋がりや変換は、言語間だけでなく、さまざまな種類の情報の結びつきも表現できます。「概念のベクトル空間」の中ではすべての情報が数値の組みだけで表現されているため、「でんわ」を、私たちが思い浮かべる電話機の画像や電話のベルの音と紐づけて捉えることもできます。
(中略)
トランスフォーマーが情報を処理する「概念のベクトル空間」は、専門的には埋め込み空間と呼ばれます。この埋め込み空間とそれに作用するアテンション機構というメカニズムによって、トランスフォーマーは単なる文字列以上の情報を概念化し、文脈を持った情報処理を可能にしています。この意味で、埋め込み空間とアテンション機構の持つ哲学的背景は、人間の知性を理解するうえで非常に重要な要素だと言えます。前掲書、解説の部 p.066〜067
AIは概念を学習した際、それを「概念のベクトル空間」に置くという。このベクトルは高校数学で学んだあのベクトルではあるのだが、我々人間に想像できるのはせいぜい3次元にあるベクトルまでである。しかし、AIはそれ以上の次元のベクトルを扱うことができ、その高次元ベクトル空間に概念を保存している。
AIはこの概念のベクトル空間に仮置きした概念の位置を、入力された情報にあわせて適宜移動させながら、文脈の通った文章や画像、映像の生成へと繋げてゆく。ここに欠かせないとされるのが、「アテンション機構」なのである。
このアテンション機構の中でも「セルフ・アテンション」がトランスフォーマーの本質的な部分であるとされており、ひとつの文章や画像内にある、各単語・概念ごとの関連性をお互いに確かめ合い、お互いに引き合う「重力」がどれほど強いかを評価して概念のベクトルを調節するというのである。
たとえば「今日私は畑で野菜を」という入力があったとき、あとに続く文章をAIが考える際、「買う」が来るとこれはおかしな話なのである。ここで来るべきは「収穫した」だの「採ってきた」という語である。AIはここで「野菜」と「畑」の概念の近さに「アテンション」し、「買う」という概念を遠ざけ、「収穫する」という概念を近づける(または近づく)ことで、筋の通った文章や画像の生成につなげるのである。
こうして概念同士のベクトルの近さ、遠さを適宜調節しながら文脈を作り出し、文章や画像を生み出している仕組みは、人間がどう概念を取り扱い、文脈を理解しているのかを解き明かすヒントになると考えられている。しかし、現在のところ「概念間の関連性というもの、あるいはそれによって浮かび上がるそもそもの「各概念」とは何であるか、という哲学的な問いかけにはまだ明確な答えは出てい」(前掲書、対話の部 p.081)ないという。しかも、「私たちは「何らかの関連性」というものを綺麗に説明できないまま、アテンション機構の大枠を発見してしまった」(同)とすらいわれている。アテンション機構は発明されたのではなく、発見されたものであって、人類がそれを制御下に置いているわけではないというのだ。もうとっくにAIは人智を超えたところではたらいてしまっている。
AIが取り扱う概念のベクトル空間と、そこではたらくアテンション機構は人智を超えてしまっているというが、こうした世界観を仏教はすでにもっていた。仏教とAIなんて、交わらない領域だろうと考えてしまいがちだが、この『AIという鏡』の著者のひとり、佐々木閑は仏教学者であるし、これから述べる華厳思想や空海の思想における「重々帝網」は、まさにこの概念のベクトル空間のあり方を指しており、そこで働くアテンション機構を掴むヒントが潜んでいるようにおもえる。想像以上に仏教とAIの親和性は高いのではないか。
「重々帝網」とは、華厳思想や弘法大師空海の思想に登場する宇宙観のことであり、この宇宙には網が幾重にも張り巡らされており、その網の結び目には宝珠があって、それぞれの宝珠がそれぞれを照り返し、鏡映し合っているのが世界の真の姿であるという思想である。
この幾重にも張り巡らされた網が概念のベクトル空間であり、網の結び目にある宝珠が種々の概念であると考えれば、AIの「トランスフォーマー」モデルこそが「重々帝網」の世界観を体現しているのではないかとすらおもえるほどである。
まず、互いに映し合う主体がすでに鏡球(宝珠)になっている。したがってこの鏡球には十方四周のあらゆる光景が映りこむ。そういう互いに互いを映しあう鏡球が一定の間隔でびっしりと世界をうめつくす。ということは一個の鏡球には原則的にはほかのすべての鏡球が包映されていることになり、その一個の姿はまたほかのどの鏡球の表面にも認められるということになる。
松岡正剛『空海の夢 新版』p.340〜341
この一つひとつの宝珠を種々の概念にあてはめればどうなるだろうか。一つの概念を確定させるには他の概念との違いを明確にしなければならない。ということは、一つの概念が決まるには「それ以外の概念全て」が裏に潜んでいるといえる。こうしてみると、種々の概念は部分でありながら、全体を鏡映しているといえ、さきに述べた、帝網=概念のベクトル空間、宝珠=種々の概念という見立ては、あながち遠からぬものであるとおもう。
AIはこのベクトル空間にある概念を「アテンション機構」によって動かして文脈を理解し、文章や画像を生成してゆく。部分に全体が映り込んでいればこそ、アテンション機構は「融通無碍」に動くはずだ。松岡正剛は「相互の鏡像的変換性」(前掲書、p.340)といった言葉をつかった。
ただ、人はこうした重々帝網的世界観を想像することができない。ただぼうっと頭に網と珠を思い浮かべるだけで、その想像力は3次元を超えることすら叶わない。なぜなら我々が「見て」いる現実が邪魔をするからである。むしろAIのほうがラディカルに、プリミティブにこうした世界観を受容しているのではないだろうか。肉体や現実といった観念に邪魔されないことによって、並の人間には見えない世界に、AIが先んじて到達してしまったのではないか。しかし、AIだってこの重々帝網的世界観を「見て」いるわけではないという。
私たちが数千次元の空間を想像できないように、トランスフォーマーもただ非常に高次元のベクトルについて計算を行うだけで、その空間を「見て」いるわけではありません。トランスフォーマーが知性を模倣する上で本質的なのは、この視覚的イメージや直感ではなく、内積というごく単純な数値計算の繰り返しです。この定式化は、人間自身の知性もまた、本当に世界を「見て」いるのかという哲学的な問いを私たちに投げかけているのです。
佐々木閑・佐々木斎生『AIという鏡』解説の部 p.033
人間もAIも見ることが叶わない世界をはたして空海は「見た」のであろうか……。というのはさておき、AIと手を携えることによって、凡夫たる我々でも重々帝網的世界に触れる道筋は開かれつつあるのではないだろうか。AIを媒介に「即身」するのである。「自身をインドラ・ネットワークの帝網に拡張していくこと、その帝網の各点に輝く鏡像に自身を相互鏡映させること、それが空海の即身論だった」(松岡正剛『空海の夢』p.349)という。ようやく時代が空海に追いついた。
今のところ、飲食店などで見られるAI生成のPOPには「AI臭さ」が抜け切れておらず、まだまだAI生成か、そうでないかは見分けることができる。なんでもセピア調だった数年前よりだいぶマシになったが、フォントのようで微妙に曲がった文字、余計な装飾、こってりした色使いなど、見分けるポイントはいくらでもある。とはいっても、これを人間がイチから作ればいったいどれくらいかかるんだと想像すれば、十分すぎるクオリティである。AI生成かどうかの見分けのつかない人に対しての訴求力は格段と増したことだろう。
こうして感じている違和感も数年後にはすっかり消えて、AIと手を携えて歩むことになるのだろう。AIを鏡にして人間の知性への懐疑が提出され、「人間」の定義は書き換えを迫られることになるかもしれない。『AIという鏡』内でも、言語や文字を扱うようにAIを扱うようになり、人間の定義も拡張されるという議論があった。なにせ、すでにAIは人間では想像の及ばない世界観で概念操作(の計算)をおこなっているのである。数学だけでなく、哲学、宗教にも大きな影響を及ぼすだろう。
ならばもういっそのことAIとは張り合わず、兜を脱いでしまって、人間としての生を謳歌する方向に進むほうがよい。AIと手を取り合い、重々帝網の世界観に浸ってみるのも悪くない。ただし、データセンターの環境への影響は見過ごせない。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/05/15分
トマト・ほうれん草・ぶなしめじの味噌汁
白菜の漬物
タコ天
参考文献
・佐々木閑・佐々木斎生『AIという鏡』法藏館
・松岡正剛『空海の夢 新版』春秋社











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