最近どころか、ここ10〜15年ぐらいのエアコンには内部クリーン機能がだいたい搭載されていて、運転後に若干の温風を送るなどして、結露したエアコン内部を乾燥させてカビを予防できるようになっている。またフィルターについても自動で掃除してくれる機能が備わっているものもあり、僕らがやれることといえば、たまにエアコンをガバッと開けて、くず受けに溜まったホコリを捨てるぐらいのものである。
人間も日々活動していれば、だんだんと脳に色々な考えが溜まってくる。朝食のメニューから着ていく服にはじまる、日々訪れる種々の選択の結果を引き受け、「あの時ああすればよかった」という過去の選択を悔いるだけでも頭の中にはあらゆる考えが駆け巡るというのに、未来の選択を妥協ないものにするために、さまざまな情報を集めようともする。こうしていれば脳には不要な思考の断片や澱のようなものが溜まっていき、脳はだんだんと疲れていく。そこで人は寝ることによって脳の内部クリーン機能を発動させ、日中の思考を整理して不要なものはどんどん捨てるようになった。
ところが、寝てもなかなか取れない、まさに「こびりついた」というのがふさわしいものが、ときに人を支配することがある。それが、他人の目線や思考の内面化である。何かをしようとする度、決めようとする度、誰かの顔がよぎってしまうのである。これは振り払おうとしてもなかなか落ちてくれない。エアコンの内部クリーン機能がすでに発生したカビを取り除けないように、人間の内部クリーン機能でも、すでに「こびりついた」考えを取り除くことはできない。
たとえば、着ていきたい服があっても、すれ違う人や友達にどう思われるかを気にしてしまったり、一人で外食をしようとしても、他の客に「一人で外食なんて変わった人だ」なんて思われたりしないだろうかと気にしてしまったりするようなことである。こうした日々の選択ならまだ軽いほうで、こうした他人の目線の内面化は、進路選択、職業選択、配偶者選択にも影響を及ぼし、アドラー心理学ふうにいえば人を「他人の人生を生きている」状態においてしまう。
自分には「こうしたい」という意思があるにもかかわらず、周囲の人の目線や思考を自分の中に取り入れてしまい、言われてもないこと、思われてもいないことであっても、勝手に想像して気にしてしまうのだ。
こうした他人の目線や思考を内面化してしまうと、自己の意思と葛藤を起こしてしまい、あらゆる選択の度に疲弊してしまうことになる。そうした疲弊が積み重なれば、自分で何かを選んだり、決断するのを避けるようになってしまい、何の行動を起こさない(起こせない)ようになってしまう。
種々のライフイベントへの参入意欲が失せ、人生の停滞を招いてしまい、周囲に置いて行かれているというような焦りをもたらす。しかし、なにか自分で選択をしようとする度に、また誰かの顔が浮かんでしまうとあれば、その葛藤を回避するために何もしないほうがマシだというほうに流れていってしまうという負のスパイラルに陥る。そして、ここで浮かぶのが「親の顔」である場合は、僕がこれまで見てきたかぎり、とくに重篤な影響を及ぼす。
親の顔色をうかがって生きてきた子どもはなにかしようとする度に「これをしたら親はどう思うだろう」と考えるようになり、親の目線や考えを内面化するようになる。また、親子の結びつきが強すぎる場合にもこうした親の目線の内面化は起こり得る。子が親離れしていないと同時に、親も子離れしておらず、血を分けたもの同士、互いによく知っている(という思い込み)のもと、秘密をもたないことが善いことであると信じているような関係性である。こうした関係性のもとで、なにか親に内緒でことを起こそうとすれば親の目線が侵入してきて、葛藤が起きてしまう。「自分がこれをしていると知ったら、親はどう思うだろう」……。
とくに、親子の結びつきが強すぎる関係性においては、子の性に関する観念がなかなか発達しない。なぜなら親は性の対象でないし、親とオープンに性の話をする家庭など限られているからである。
基本的に性のことは秘密にするものである。親に堂々と自らの性事情を話すような人間は(ほとんど)いないだろう。人間は性にまつわることを隠したことによって、これほどまでに密集したかたちで繁殖、繁栄できるようになったのではないかといったのは、霊長類学者で人類学者の山極寿一である。壁を作り、家を作って、その裏でセックスをするようになったからこそ、人はこれほどまでに他者と近くに住んでいられるというのである。そして、壁の向こうでなにかゴソゴソ物音がしているのに気づいていても、互いに知らんふりをするのが人間社会の暗黙の了解とされてきた。
思春期真っ盛りの青少年が、部屋に突然入ってきたカーチャンにアレを見られる、なんていうのは定番のシチュエーションだが、親の側としても、そういうのをする年頃だとわかっていて知らんふりをするのが、ほどよい距離感の親子関係なのである。
ところが、親子関係が緊密すぎると、子の側に性の観念が発達しない。なぜなら、親に隠さないといけないこと、秘密にしないといけないことは、ダメなこと、汚いこと、悪いことのようにおもえてしまうからである。
誰もが思春期になれば秘密を抱えて、こっそりゴソゴソしたりするようになる……はずなのだが、秘密を抱えること自体が悪いことであると考えて生きてきてしまうと、性にまつわることは悪いこと、汚いことだというふうに考えて遠ざけるようになってしまう。こういう人に対して、「親だってソレをしたから自分が産まれてきたんだ」といっても無力である。また、性欲は食欲と同様にキレイも汚いもなく、ただそこにあるものだ、と説得しようとしたってこれも無力である。
秘密にしないといけないことは悪いこと、汚いことであるという観念はドグマとして刻み込まれてしまっており、また、その人の中に親の存在は絶対的なものとして君臨しているから、浄と不浄というものを相対化することができないのだ。
こうした「こびりついた」考えなんて、振り払ってしまうのが一番いいのだろうけれど、それは容易なことではない。最初にも言ったように、エアコンの内部クリーン装置は、すでに発生したカビを除去することができないが、人間の内部クリーン装置であっても、すでに自分に「こびりつい」てしまった考えは除去することができない。もしもこれを取り除きたければ、自分を一度分解してしまわないといけない。壊れないように必死になって組み立ててきた自分にメスを入れることになる。
これは恐ろしいことである。まさに自分が死ぬような思いをすることになるし、これまで自分が支えにしてきたものを殺すようなものでもある。そんな思いをするぐらいならば、これまで通り、決断の度に他人の顔が浮かぶ人生でもかまわないとおもうかもしれない。だが、葛藤を抱えているということは、それを善しとしていない自分が存在しているということである。あとはこれをどれだけ我慢できるかの勝負である。いつかは爆発するとされている休火山のように。
みずから、自身の中に飼っている絶対的なものを殺すのには大変な勇気が必要である。そう考えれば僕はとても幸運だったといえる。勝手に向こうのほうから斃れていってくれたからである。絶対的な価値を自らの行いによって放棄してくれたのだ。
いや、おそらく絶対的な価値を持つと思っている他者が、みずからその価値を放棄してしまっている場面など、いくらでもあるのだろう。あとは色眼鏡をかけずにそれを見つめ、その機縁を掴むだけのことなのかもしれない。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/05/21分(上)
小松菜・にんじん・油揚げの味噌汁
ゆず大根
ちくわのきゅうり詰め
なめ茸
2026/05/22分(下)
ほうれん草・ミニトマト・玉ねぎ・卵の味噌汁
大根の醤油煮
なめ茸
写真が溜まってきたので、2日分載せることにする。
参考文献
・山極寿一・小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』新潮社→新潮文庫










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