0115 無償の敬意

百汁百菜

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 誰かに敬意を「払う」とき、現実のお金は出ていかなくとも、心の勘定はしているはずである。敬意を払う際に財布が痛むようなことはないのだから、円満な人間関係と円滑な組織運営のためなら、たとえ表面上の敬意であっても、払えるだけ払っておいても損はないはずである。だが、そうして払い続けていると、何かが損なわれたような気になる。現実のお金は減っていない。だけど、〈心の尊敬貯金〉と言えるようなものからはしっかりと支出されている。そんな気がする。
 僕の〈心の尊敬貯金〉には、ほとんど蓄えがないのだろう。会社員が続かなかったのも、この貯金をあっという間に使い果たしてしまったからだろうし、ある経営者にビジネスの指導を受けられそうな機会があったにもかかわらずそれをふいにしてしまったのも、その経営者に支払える敬意がなかったからである。

 ひとりの人間を相手にして、その人の全てを尊敬するということは難しい。仕事に対する姿勢は尊敬できても、素行や言動に問題のある人はいるし、仕事の能力という面で見ればそこそこでも、そこそこだからこその人徳を備えている人もいる。この人のここは尊敬できるけれど、この一面については反面教師とさせてもらう……というような、いわばアラカルト的に敬意というものは払われるはずなのだが、世間では、全面的な尊敬と恭順といえるようなもの、いわばフルコース的な敬意の支払いを求められるケースが多い。
 先に挙げた経営者氏はまさにフルコース的な敬意の支払いを求める人間で、「拾ってやったのだから俺の言うことは嫌な顔せずに黙って聞いて、俺のような人間になればいい」という考えを持っていた。表面上でも敬意を払っていればその経営者氏からビジネスのやり方を盗んで……ということもできたであろうが、僕はどうもすぐ顔に出るという弱点を抱えており、お説教を聞かされても、武勇伝を披露されても、「何言ってんだコイツ」という顔でその経営者氏のことを見てしまっていたらしい。
 別に氏の生き様を否定する気もなければ、氏が生きた氷河期の時代(氏は今頃40代後半〜50代ぐらいだ)を生き延びるには、武勇伝で聞かされたような無茶な働き方しかなかったのだろうとおもう。いくら〈尊敬貯金〉の少ない僕でも、そういう面にリスペクトはいくらかもっている。だが、僕はその生き方を真似したいとはとてもおもえなかった。また、僕に働く目的を植え付けようと、とにかく「金と女」を推してくるような軽佻浮薄な物言いにはほとほと嫌気が差していて、尊敬しようにもできなかったというのが本音である。

 会社においてもアラカルト的な敬意は通用しない。少なくとも、仕事上においては「言われたことについて、ここは守るけど、ここは破ります」というようなことは通じない。上から言われたことは絶対であり、やらねばならないこととして降りかかる。
 とくに新人という立場においては、上の人間の言うことに理があるかどうか考える頭もないのだから、とにかく従っていればいいというような風潮がある。実際これは正しく、仕事のなんたるかを何も知らないまま、狭い了見で発せられる新人の意見など、取るに足らないものであることがほとんどである。とはいえ、いくらなんでもこれに意味はあるのか?とおもえるような施策や命令が発せられると、新人の身であっても破りたくなってしまう。
 こうして言うことを守らないでいれば上に嫌われるのは当たり前の話であって、上司の尊敬できるような一面を覗く前に、すっかりこちらが嫌われてしまっていているから、尊敬できそうなとっかかりを見つけることもできない。ここで、ハナから上に敬意を抱いていないという僕の側に大きな問題がある、というのは間違いのないことである。

 僕はいつからか、ただ年上だからとか、立場が上だからとかいう理由では、その人を無条件に尊敬することはなくなっていた。儒教などにいう「孝」の心を失っているといってもいいだろう。その「孝」を失ってしまったのは、身の回りの大人を絶対的な存在として見做さなくなり、相対的な物差しを持つようになったからであろう。
 これはよく覚えているのだが、僕の親(とくに母親)はラーメンを食べるとき、一口も手をつけていない状態からコショウをかけて食べていた。僕もそれがラーメンを食べる時の作法だと思って幼少期の頃はずっと真似をしていたのだが、ある時、たまたま見かけたテレビのトーク番組で、「ラーメンを食うときに初手からコショウをかけるのは通ではない」というような発言を聞いて、親のやっていることに疑問を持つようになった。「こんな些細なことから?」とおもわれるかもしれないが、幼少期の僕にとっては、親のやっていることが必ずしも正しいことではなさそうだ、というのを知ったのはやはり衝撃的だった。
 それからというもの、親のやっていることにはいちいち疑問を差し挟むという可愛くない子どもになり、それは次第に他の周りの大人にも拡大し、いつしか僕は年上だからとか、立場があるからといってその人がエラいなどとは思わなくなった。こうして「孝」の心を失った。

 絶対的なものを解体して相対的なものに帰してしまうのは老荘思想の得意技であり、唯一〈道〉なるものを絶対のものとして置くが、その正体が何かというのは暗示されるのみであり、またそもそもの〈道〉という名前さえも仮のものであるとされ、我々人間の身においては、相対的な物差しでしか捉えられないという混沌ぶりを示している。しかし、その全てが相対的な混沌こそ老荘思想が重んじるところであり、「人の身に絶対などない」と考えているような僕にとってはまさに「これがあったか!」という思想なのである。
『老子』には後世に儒教を批判するために付け加えられたのではないかと考えられるいくつかの章があるが、その中の一つは次のようなものである。

 大道廃れて仁義有り。慧智出でて大偽有り。六親和せずして孝慈有り。国家昏乱して忠臣有り。
 (大道廃有仁義。慧智出有大偽。六親不和有孝慈。国家昏乱有忠臣。)

 『老子』第十八章

 世の中に「ほんとうの道がなくなったので世の中には仁愛とか正義とかがもてはやされる」(野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス中国の古典 老子・荘子』p.66〜67)とし、「孝」に関しても、「一家のうちが仲が悪くなると親に孝を尽くせとか」(前掲書、p.67)言いはじめるのだとしている。
 儒教のいう、仁や義や礼や智や信や忠や孝や悌というものは統治のために都合よくつくられた不自然な教えであり、無為自然を説く道家からすれば、これらは人の心が乱れ、世が乱れているからこそ、このような統治のための論理が必要になってしまうのだと批判している。
 では、道家のいう理想の統治とは何か。『荘子』では統治に関することはほぼ説かれないが、『老子』には統治に関することも言及されている。それによれば、「最上の政治は下々が君主がおることだけを知っているだけの政治であり、君主はゆったりと構え、功績を喧伝しないような政治をすれば、下々の民はそれが君主のおかげではなく、自分たちの力で自然にそうなったのだと思うようになり、うまくいく」(参考:前掲書、p.63)とされている。
 君主は抑えのような形で上にいるが、民衆にはそれがあまり意識されない形で、自然に任せるような統治が一番だというのだ。君主が民衆を支配しようと、積極的な政治や介入はしてはならないとしている。このような統治形態では、ややもすればアナーキーな状態を招き、これこそ人の心が乱れ、世も乱れてしまうのではないかとおもえてしまうものだが、〈道〉に従っておればそのようなことにはならないだろう、というのが道家の見立てである。

 だが実際のところ、円満な人間関係、円滑な組織運営のためには規則が必要だ。しかし、それは校則や社則だけでは足りない。明文化されていないけれど、社会で広く共有されている通念を利用し、強化する形で運用することで、新たに規則を作るコストを下げつつ、人間関係や組織を回していけるようになっているのだ。それが今の日本の社会を作っている。基調をなすのはやはり儒教、とくに朱子学の教えである(韓国よりは随分マシであろうが)。

 今ほど人間の平均寿命が長くなかったころ、長生きしているということはそれだけで価値のあったことであり、また長生きするなかで十分に経験も知識も蓄えていたであろうから、そういった人が尊敬を集めたのは当然のことであっただろう。
 だが今はどうだろうか。人間が本来想定していた寿命はせいぜい40年ほどだといわれているが、それを大幅に超えて平均寿命がその2倍以上となっている世においては、長生きすることは珍しいことではなくなってきた。80歳を超えてもまだまだ矍鑠かくしゃくとしている人がいる一方で、本来の想定を超えて長生き「してしまった」ことで、数々の不調や衰えを抱えてしまい、次世代に経験や知識を託すことが難しくなってしまっている人もいる。
 今でもやはり長生きしていることそれ自体には敬意は払われるだろう。いくら〈尊敬貯金〉の少ない僕でも、一定の敬意は払う(というか、払わずにはいられない)。だが、それが先に言ったようなフルコース的な敬意として支払うことができるかはわからない。

 敬意というものは、支払いを強制されるものであってはならないというのが僕の考えである。実際のお金は出ていかない、無償のものだからいくらでも払えるだろうという考えには、僕は同意しかねる。心の中ではやはり何かが勘定されており、「敬意を払う」という以上、支払った分だけ何かが減っている。それはチンケなプライドかもしれないし、従えない命令から自分を守るための誇りかもしれないし、ないはずの自分という存在かもしれない。
 繰り返しいうが、僕は人の身において絶対など存在しないと考えている。だから、ただルールとして存在しているからといって敬意の支払いを求められてもそれを拒否する。逆に、敬意さえ払えればうまくいくのであれば、喜んで支払おう。ただし、それは尊敬できるところを見つけられたらの話だ。

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参考文献

・野村茂夫『ビギナーズ・クラシック 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫

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