たとえばコーヒー豆が底をつきそうになると、ついつい温存しようとしてしまう。放っておけば鮮度がどんどん落ちていくのに、つい残しておこうという気持ちがはたらく。一人で消費するものに遠慮のカタマリなど無意味なのに、キャニスターが空っぽになってしまうのが恐いのか、勿体ぶってなかなか消費しきらない。そして、すっかり気の抜けたコーヒーを飲むことになるのだ。
クリア目前のゲーム(とくにRPG)もこのような形でつい放置しがちである。クリアしてしまえば、仲間たちとの旅路に区切りがついてしまう。クリア後のやり込み要素がないものほど、今の旅の仲間が愛おしくなり、クリアを遅らせてしまうが、はっきり言って遅らせてクリアした分、感慨深くなるということもなく、熱を持ってプレイしていたときのほうがよっぽど感動できたようにおもえるから、こんなのさっさとクリアしたほうがよいのである。それでもついつい、終わってしまうのが恐くて温存してしまう。
販売終了したお菓子や期間限定フレーバーのコーヒー豆ならまだ仕方ないかもしれないのだが(それでもさっさと消費したほうがいい)、値上がり前の商品を温存して、値上がり後の商品を買うのをできるだけ遅らせようとするという、名残惜しさよりもみみっちさで温存するパターンもある。たとえば無印のコーヒー豆(200g)なんかは、けっこう短期間で「850円」→「950円」→「1,050円」と上がっていったので、温存癖と、諦めて新しいのを買う勇気とが幾度もせめぎ合いを演じた。結局、今は950円時代に開催された無印良品週間で買い溜めた豆でコーヒーを淹れているが、またこれが底をつきそうになったら、1,050円の豆を買うのを勿体ぶることになるだろう。そうこうしているうちに、たぶんまた値上がりの波が来て、じゃあその前に買っておこうと数袋確保するのだろう。値上がりニュースに尻を叩かれるまでなんとか温存しようとして、みすみす鮮度の落ちたコーヒーを飲むような僕はなんといじましい男なんだろう。
本やプラモデルのような、時間をかけて向き合うものはどんどん積み重なり、人生の中で消費、消化しきれるかわからないぐらいになっている(本の積み具合は半年もあれば消化できるぐらいだからまだマシ)から、底をつく心配は一切ない。むしろさっさと掃いてしまいたいから、勿体ぶらずに読み終えたり、組んでしまえるし、一旦読書や作業が終わっても、これらは手元に残る。その一方で、やっぱり消えものが底をつくのが恐くなってしまう。お土産にもらったお菓子の最後の一個なんて、次いつお目にかかれるかわからないから、つい「とっておき」にしてしまう。
でも、こうやってまだ「とっておき」に残しておこうとおもえるのはまだ人生を折り返していないからで、人生を悠長に構えている証拠なのだろう。そうやって取っておいたものを口にする機会があると信じきっている。今のうちに、美味しいうちに味わっておくほうがいいに決まっているのに、いざというときに残しておきたい気持ちが邪魔をする。そうやって「いざというとき(といっても、緊急でもなんでもない、ただちょっと特別な日)」に食べたものが、本当に美味しかったことなんてあっただろうか?
僕は最近、父がたまに買ってくる「阿闍梨餅(京都の銘菓)」で勿体ぶらずにさっさと食べる訓練をしている。阿闍梨餅は新鮮なうちのモチモチ食感が身上で、3日も4日も放っておけばそれが失われてしまうから、さっさと食べるに限るお菓子なのだ。いつかのために取っておこうだなんておもわずに、もらったら、すぐに、モチモチの美味しさが残っているうちに食べる。でなければせっかくの阿闍梨餅が泣く。正直、阿闍梨餅は「また今度」が期待できてしまうので僕の成長につながっているかどうかはわからないが、これからの人生、「また今度」が訪れる保証はどんどんなくなっていく。ならば、美味しいうちにお菓子も、コーヒーも、経験も味わったほうがいい。そうおもって、底をつくのを恐れないように生きていきたい。どうせまた、そのときにはそのときにいいものと巡り合う……はずである。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/25分
あおさ塩のおにぎり
カブ・ほうれん草・油揚げの味噌汁
大根の醤油漬け
このあおさ塩は逆に底をつく気配がなく、ガンガン使ってもやっぱり「塩」なので食べられる限界がある。鮮度は落ちる一方だが、捨てるわけにもいかない。





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