かつては人々の意欲を国家が刺激していた時期もあったが、今となってはその役目は企業が担うようになっている。人々はクニのためからジブンのために行動するようになった。国家は曲がりなりにも、人々を発奮させたことの責任はとろうとはしていたとおもう(実際に取れたかどうかは、今の世界を見ればわかる)。では、企業が焚き付けた人々の消費・購買意欲に対する責任はどうか。近頃はサステナブルだなんだといって、消費すること、生産することへの責任感を持ち出しているものの、そんなもの最初から生産しなければ消費されないのだから、これは企業による自己正当化にすぎない。僕が中学生くらいのころ、どこぞのカップ麺企業が「新しい工場は環境に配慮してます」とCMを打っていたのを見て、「最初からカップ麺を作らないというのが、一番の環境への配慮なのではないか」なんて疑問を抱いていたのを思い出す。
それはともかく、サステナブルなんて言葉のせいで、いつのまにか企業が負うべき責任が、環境に配慮した商品を選ぶ消費者の責任だというふうに、消費者にまでおっ被せられてまったのではないか。勝手に作って、勝手に売りつけて、でもその責任の一端は消費者が取ってくださいだなんて、到底承服できるものではない。
『銃・病原菌・鉄』を著したジャレド・ダイアモンドは同書において、人はたびたび「必要から発明がおこった」という誤謬をおかすが、実際はその逆で、「発明がおこってから、必要が生まれた」ことを指摘した。内燃機関・電球・蓄音機・半導体などは、発明された当時、それは何に使えばいいかよくわからなかったものがほとんどだったというのだ。蓄音機は当初、エジソンの想定では音声記録装置であったのに、いつのまにかこれは音楽を記録するのにちょうど良い、ということが人々に“発見”されて、音楽記録・再生メディアとして使われはじめた。このように、人々は発明品が世に出てから、その使い方を編み出してきたのである。
企業が繰り出す商品も同じだ。ついつい「生活に必要だから商品として発売された」だとか「潜在需要を刺激した」ものだと勘違いしてしまうが、あらゆる商品やソリューションというようなものは、世に出てから使い方(必要)が編み出されていくのであって、なければないで生活は成り立っていたはずである。SNSだって、最初はピーチクパーチク人々はそれぞれ好き勝手つぶやいていただけなのに、いつのまにかそれは議論の場になり、マーケティングの主戦場になり、自己表現・自己顕示の場になり果てた。人々が最初からSNSのような場を求めていたのではなく、それが世に出てから人々はSNSに「必要」を見出したのである。
国家による焚き付けから解放されたとおもったら、今度はそこを企業につけ込まれて、人々は企業の言われるがままに消費・経済活動をおこなうようになった。むろん、人々の側が商品やサービスの使い方を“発見”したからこそ生まれた利用法もあるが、結局それは企業によって回収されていく。そうして、自己実現もその企業の手のひらの上でなされていくことになる。
noteなどはその典型であろう。noteは懇切丁寧に書き手を「クリエイター」扱いして気持ちよくさせ、ユーザーたちに次々とコンテンツを生み出させることに特化したプラットフォームだ。noteにおいて新規記事を執筆しようとすれば、「あなたの書いたものが楽しみ」だとか言ってくるし、一本書き終えれば「これで○週連続投稿です」などと、達成感を刺激しつつも次の投稿を催促してくる。
大塚英志が『メディアミックス化する日本』を著したとき(2014年)にはまだnoteが台頭してはいなかったものの、すでにそのころ、ニコニコ動画、pixivなどのプラットフォームが二次創作を受け入れる場として機能しつつ、人々の創作欲に乗っかってタダでユーザーにコンテンツを作らせていた。そうやって投稿されたコンテンツによって集客し、そこに広告を載せたり、プレミアムサービスを提供して稼ぐというビジネスが生まれていた。noteはまさに2014年に生まれており、こちらは二次創作ではなく、人々のブログ的記事がコンテンツの核ではあるものの、ニコニコ動画やpixivと構造は同じようなものであって、人々の創作欲を刺激して、タダでコンテンツを作らせているのは変わらない(少し違うのは、有料記事の有無か)。この大塚英志が指摘した「人々に語らせる仕組み」については、また近いうちに取り上げてみたい。
さて、noteの話に戻るが、noteでは頻繁にハッシュタグを用いた企業コラボテーマの投稿を募っているし、「創作大賞」と銘打って書籍化、連載化、映像化などをチラつかせて作品を募っている。これらの作品は「クリエイター」たちによってタダで作られ、noteの集客、ハッシュタグの露出増→企業名の露出増へとつながっていく。こんなもの、ただ「クリエイター」が創作意欲をダシに企業の広告に加担させられているように見えるが、「クリエイター」側だって、なにかの拍子に公式の目に留まれないか、有名になれないか、自分の主張を広く届けられないか、などと考えているのだから、noteおよび、公式キャンペーンを利用しない手はないのだ。自分を売り込みたければ、魂胆が見え見えの地雷にだって、飛び込まねばならないときもある。
じゃあそれで運良く見つかって、一発逆転……なんて夢は見ない方がいいだろう。僕も一度だけとある記事がnote編集部の目に留まったことがあるが、だからといってその記事が僕にしては多少は読まれたぐらいで、なんにも人生は変わっていない。一発逆転の夢をみんな見るけれど、それは資本主義においてはそうそう起こらず、もはやそれは宗教の領域だという話をどこかで聞いたことがある。
宗教ではたびたび「跳躍」が話題になる。それは宗教体験、神秘体験であり、悟りである。神の前の自分であり、自身と仏の二項同体である。かつてはこのように宗教が僕らの人生の指針を示し、意欲に火をつけていたかもしれない。どれだけ人生が苦しかろうとも、最後の最後に阿弥陀仏に迎えられれば、それで救われた人がいた。
だが、今のわれわれには阿弥陀仏の救いの手は届かない、というか見えていない。それよりも今、一発逆転の夢を叶えようと、「善行」に必死になるのがわれわれである。それを知っているからこそ、「これからもnoteで書いていれば、イイことがあるかもしれませんよ」なんていう期待を抱かせるだけ抱かせて、今日もnoteは「クリエイター」たちにタダで記事を書かせるのだ。
人々の意欲はすっかり企業に掌握されてしまった。消費欲はおろか、創作——要するに生産——欲までもが企業に握られてしまっている。ゆりかごから墓場まで、社会福祉ではなく企業活動に包摂されて生きていかねばならない。僕は自分で食べる野菜を自分でつくることによって、せめてもの抵抗を試みているものの、結局その野菜の種は、苗は、肥料は誰が作って、誰が運んで、誰が売っているのか?決して僕らは企業活動からは逃れることはできない。そこに絶望して「冷めてしまう」人がいるのも頷けよう。何もかもカネがらみに見えてしまって、消費活動すらバカバカしくなるということもあろう。どう抵抗したってムダなんだ……と。それでも、どうしたってこの身体は食べ物を求めるし、このアタマの中にあるものをどこかに取り出して広げてみたいとおもっている。絶望の淵にあっても生きようとする身体を、なにかを表現したいとおもう心を無視しつづけることはできないのだから、向き合うほかはない。そのためのキーワードは「ムダを愛する」ことだとおもう。
農家でもないのに、自分で野菜を育てるなんてムダな行為でしかない。でもこれが楽しいからやっている。やりたいからやっている。僕はムダを愛しているからこれができる。この「百汁百菜」だってそうだ。誰に求められたわけでもないのにこれを書いている。しかもどちらかというと多くの人の目に触れやすいnoteではなく、自分のブログで展開するなんて、とても正気ではない。誰かのためになったのなら嬉しいけれど、そんな確証もなく、まずはただ自分が書きたいからやっている。「ムダを愛する」ことなしに、この世の中において自分自身の意欲を燃やし続けることはできない。「冷め」への処方箋はこれしかない。このへんについては、次回で掘り下げてみたいとおもう。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/04/02分
キャベツ・トマト・油揚げの味噌汁
茹で鶏と茹で卵・ブロッコリーのサラダ
大根の醤油漬け
キャベツとブロッコリー、大根は自分で育てたもの。
参考文献
・大塚英志『メディアミックス化する日本』イースト・プレス
・ジャレド・ダイアモンド(著) 倉骨彰(訳)『銃・病原菌・鉄』(下) 草思社









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