0095 僕らは〈世界〉を語らされている

百汁百菜

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 思うに、種々のSNSやnoteといったものは、いかに自分と世間が隔たっていないか、同質のものであるかを確認する装置になっているのではないか。インプレッション数、いいね(スキ)数、リポスト数……あらゆる指標が可視化されて、「あなたの意見は世間ではこれぐらい同意を得ていますよ」とユーザーたちに突きつけられる。もちろん、Xの引用リポストの中には反論もあって、必ずしも同意されたという指標にはなっていないが、それだけ世間に自分の意見が届いたということではある。
 あまりにも独創的で、ラディカルで、先取的な意見はなかなか賛同を得られず、アルゴリズムの海に埋もれていき、そのような意見の語り手たちは自分の声が届かないとわかると静かにその場を去っていく。結局SNSは〈すでに知っていること〉・〈みんなが共感できること〉に若干の新しい情報を加えたぐらいの範囲内の意見で埋めつくされる。あまりにも新しすぎたり、正論ど真ん中すぎて誰も真似できない、共感できない意見はお呼びでないようだ。

 XがかつてTwitterと呼ばれていた頃、ユーザーの声は「ツイート」であり、まさに小鳥のさえずりがごとく、わかる人には通じるぐらいのことをただぼんやりとつぶやいていた。それで反応が返ってくるならよし、別に返ってこなくたってそれでいいぐらいの気持ちで虚空にツイートを投げていた。それが東日本大震災後あたりから論争の場へと発展し、毎日のように意見が二分するような話題が投げかけられて論争が続いている。ちょうど今日は週刊誌が芸能人のパワハラ疑惑を報じたところで、今まさにXでは論争が起こっている。
 XなどSNSの目的は言わずもがな、ユーザーを画面に釘付けにして、種々の広告への接触機会を増やすこと。関心のありそうな話題をチョイスして画面に表示し、アプリをとにかく開かせて、関心のある話題で惹きつけて、次々と画面をスクロールさせることに全精力を注ぎ込んでいる。
 そうしたプラットフォーマーたちが提供するのはあくまで場で、彼らはコンテンツを自ら作るということをほとんどしない。代わりに、ユーザーたちがポスト(投稿)することで勝手にコンテンツが生み出されていく。僕たちはまんまとプラットフォーマーに乗せられて語らされているのである。

 SNSの中でも一つのムーブメントを生み出しているのは二次創作であろう。アニメ・漫画・ゲーム・ドラマなどのコンテンツ制作者が提示した〈世界〉をもとに、消費者の側だった人間が発信者・発話者としてその〈世界〉に参画していくものである。近年では二次創作もマーケティングの一部とみなされ、コンテンツ制作者たる公式が積極的に発信を行わなくても、二次創作が勝手に盛り上がってくれれば、それだけで十分宣伝になると捉えられている(ただし、魅力的な〈世界〉を生み出さなければならないというのは言うまでもない)。また、二次創作の作家を積極的に公式イラストに登用したりして、発信者と消費者が溶け合い一つのムーブメントを作り上げようとする動きは活発になっている。
 だが、この〈世界〉をもとに創作を行うというのは今に始まったことではない。大塚英志の『メディアミックス化する日本』によれば、歌舞伎や浄瑠璃にある〈世界〉—〈趣向〉モデルがそれであるというのだ。

……江戸期においては『世界網目』という「世界観」の種本のような本が成立していました。そこにはその時点での大衆表現(歌舞伎や浄瑠璃、能や講談、その他の口承文芸)が共有する百数十の〈世界〉が歌舞伎の戯曲用にデータベースとして作られていました。〈世界〉を送り手と受け手が共有し、そして送り手がその都度、物語をそこから立ち上げ、時には受け手もまた送り手として参画するというのは、日本の口承文芸の形式の中ではよく見られたものでした。
(中略)
 加えて口承文芸では、送り手と受け手の関係も流動的なものとして考えるのが一般的です。たった一人の固有の作者というものによってのみ物語が語られるのは、むしろ例外的です。

大塚英志『メディアミックス化する日本』p.051〜052

 皆で共有している〈世界〉をベースに、さまざまな〈趣向〉を凝らして「異本」を生み出すのが、大塚のいう〈世界〉—〈趣向〉モデルである。かつての口承文芸では、この「異本」がその都度アドリブのような形で生み出されていたという。これが今では送り手たる「公式」が〈世界〉を提示し、受け手が〈趣向〉を凝らした「異本」を作るのを黙認どころか、コンテンツによってはむしろ奨励することで、二次創作の送り手すら巻き込んでマーケットを広げようとしている。「公式」に見逃される形でこっそりやっていた二次創作は、いまや〈世界〉の一部を語るものとして取り入れられているのだ。

〈世界〉が与えられると、その「異本」を語りたくなるのは人の習性であろうか、各地の神話、民話にも物語の原型・類型というものがあり、民俗学等の研究分野にもなっている。別に誰かから求められたわけでもないのに、人は〈世界〉をベースにしつつも、別のストーリーテリングをしてみたいと考えていたのだ。物語が語り継がれる中で種々の「異本」や「異説」が生まれ、家族、集落、クニで共有されては、また語り直されて受け継がれていった。琵琶法師のような人々が各地を巡って物語ることで伝播した物語があったであろうことも見逃せない。
 だが、今では「公式」の下請けのような形で二次創作を語らされてはいないだろうか。もはや二次創作発信者たちは「物語りたい」欲求を刺激されて、タダ働きで宣伝に加担させられている。また、自発的だったはずの「物語りたい」欲求は「もしかしたら公式に拾ってもらえるかも……」「バズれば界隈で有名になれるかも……」という下心含みの語りに変質してはいないだろうか。
 人々がもつ、「〈世界〉について語りたい」という欲をちょいと刺激してやれば、あとはその場を整えるだけで勝手に皆がコンテンツについて語ってくれ、楽してマーケティングができるということに「公式」は気づいてしまったのだ。

 この〈世界〉を語らせるという仕組みはなにも二次創作に限ったことではない。大塚英志はこれまた『メディアミックス化する日本』で次のように言っている。

……Web上では投稿のテーマそのものが〈世界〉化しやすく、その中で人はブログを書き、ツイートもします。一つの傾向の世論が極端な形で形成されていく仕組みは、「〈世界〉—〈趣向〉モデル」で説明できるでしょう。投稿者は2ちゃんねる内では2ちゃんねるの価値や用語を〈世界〉として、その中で「語る」わけです。「投稿」が自由な発言に見えながらある枠組の中で無自覚に語らされているという事態は、2ちゃんねるに限らず冷静になればそこかしこに散見できるでしょう。

大塚英志『メディアミックス化する日本』p.061〜062

 芸能人の不倫ニュース、不祥事、スポーツの世界大会、新商品の告知……あらゆる話題=〈世界〉が僕らには与えられて、そしてその〈世界〉について口々に投稿していく。みんな〈世界〉に対して、一言何か言っておかなければすまないのである。まさに今朝も芸能人のパワハラ疑惑が報じられたところである。被害側とされる女優を擁護する意見もあれば、加害側とされている俳優をなじる意見もありつつも、その俳優にだって十分理があるとする意見も出てくる。その女優が持っていた信条にまで話題は及び、同じ信条を持つ人々が声を上げる一方で、その信条に対してかねてから反感を持っている人々がまた声を上げる……。このように一つ〈世界〉が与えられるだけでほかの〈世界〉へと伝播し、人々の語りはますます熱を帯びてくる。そしてこの語りを金に換えるのがSNSなどのプラットフォーマーなのである。
 プラットフォーマーは言うだろう。「人々が語りたいと言っているからその場を用意しただけだ」と。しかし種々の指標の可視化やアルゴリズムの操作によって「語らせている」のではないか。
 いいね・スキがついたり、リポストされたりすると人は嬉しくなるに決まっている。次もまた投稿すれば反応が返ってくるかも、というのを期待させ、次はどんな〈趣向〉を凝らした投稿をしようかと考えさせる。また、関心のありそうな話題、とくに論争の種をタイムライン上に表示させ、「自分はこうだ」という意見をまさに語らせようとしてくるのだ。このように、もはや僕らは語ることを強制されているといってもよい状況に置かれている。しかし、大塚はいう。

 あるいはWeb上での語りや二次創作を「させられている」と強制の結果のように表現することに違和があるかもしれません。強制どころか、小さい頃からある枠組の中で順応して語る中で行動する所作を身につけた人々にとっては、むしろ自然なふるまい、心地よいふるまいと感じられるでしょう。

大塚英志『メディアミックス化する日本』p.063 引用に伴い傍点削除

 小さい頃からソーシャルメディアに慣れ親しんだ人々にとっては、もはやWeb上のほうがリアルな世界と感じられているのではないか。かつては「リアルでは言えないからネットで言う」だったのが、「ネットで言えないからリアルで言う」ように逆転すらしている。SNSへの投稿も、強制されたものではなく、もう生まれたころから「ある」のだから、自然な行為のようにおもえてしまっている。
 だが、自身の発言に対し、自分だけでなく周囲までもが容易にチェックでき、また誰の目にもわかりやすい数字という指標で評価がなされている状況はまったくもって自然とはいえない。絶えず他者との数値比較がなされ、これまで「なんとなく」「だいたいこんなもの」で済まされていた社会と自分との距離感がリアリティをもって示される(ここでいう数は抽象概念なのだから、「リアル」なものではない。しかし、人はこれを「リアリティ」をもって感じてしまう)ようになってしまった。

 最初に言ったとおり、SNSやnoteのような場は、自分が世間と隔たっていないことを確認する装置である。論争の種になるような意見が投げかけられて世論が二分されることもあるが、結局は反対する人と同じくらい、賛同する人・共感する人を得ているのであるから、論争の種になるようなことを投稿した人は「世間からズレていない」といえる。
 一番つらいのは、見向きもされないことが、いいねやスキの数として自分にも他人にも可視化されることだ。いくら自分が「ちょっと世間からズレてるかも」と思っている人でも、いざそれを突きつけられるとさすがに傷ついてしまう。こうした指標に一喜一憂して、自分が世間から必要とされていないことが示されてしまうのを恐れ、やっぱりいいね・スキが欲しい!と自分の尖った意見を丸めたり、世間が共感する意見に自分のほうを合わせにいったりなんかしてしまう人もいる。僕なんかは、いいねやスキの数とその人自体の価値には何の関係ないとおもうけど、やはり直結して受け止めてしまうような人もいる。

 僕らは〈世界〉について語り、それは世界の一部になっていく。とめどなく溢れてくる〈世界〉を語りたい欲求に僕らは駆られて、汗や結晶、あるいは果実や垢を世界に落としていく。
 こうした人の根っこにある欲求につけこんで、種々のプラットフォーマーは、〈世界〉についての語りを、ユーザーにタダ働きさせることでコンテンツ化しようとする。また、いいね・スキ、リポストやインプレッション数などを表示することで社会適応度の指標にしてしまった。
 僕は〈世界〉についての語りたい欲をこんな数字によって彼らに回収されたくないとおもったので、こうして自分でブログを立ち上げている。とはいえ、まさにこの記事のように、僕もSNSなどの影響を受けて「語らされている」といってよいだろう。しかし、もはやこの影響力は避けようのないものであるから、せめて距離をとりつつ、どうせかくなら、気持ちいい汗をかこうといいたい。
 僕らが〈世界〉を語るためにかいた汗も、そこに落とした結晶も、やすやすとプラットフォーマーに渡してはいけない。プラットフォーマーは「うちで書けばもっといろんな人に届けてあげるよ」「いろんな人から反応をもらえるよ」と誘惑してくるが、すべてタダ働きさせるための方便である。それでも、世間からの評判を得るためにはこうしたプラットフォーマーを利用するしかない、というなら僕は止めない。だけど、くれぐれもそれらに「語らされて」はいけない。あなたの価値を種々の数字に還元してしまってはいけない。あくまでのびのびと、気持ちよく汗をかいて〈世界〉について語るのがいい。

 なんていうと、この「のびのび」というのを誤解して、本当に好き勝手に書いてしまうような人がいるんだけど、それはまたちょっと違うんだよなあ。〈世界〉の語りとして、あくまで他者に向けたものなのだから、やはり他者に見られることを多少は意識しないといけない。またその辺については今度詳しく書こうとおもう。

関連百汁百菜

今回の一汁一菜

2026/04/23分

ほうれん草・にんじん・ぶなしめじの味噌汁
なめ茸
わさび椎茸の佃煮

参考文献

・大塚英志『メディアミックス化する日本』イースト・プレス

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