0083 恋は冷めるもの、あるいは狂気について

百汁百菜

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「恋」の漢字は「心が変になるから恋と覚えればいい」なんてことを昔誰かが言っていたような気がする。自分で考えたのか、同級生がそう言っていたのか、本で読んだか、ネットで見たか、もはや定かではない。それはともかく、恋は確かに心が変になっている状態のことをいうのであろう。そして、「百年の恋も一時に冷める」というように、「恋は冷めるもの」であると認識されているということは、その恋の真っ只中にある心は燃え上がり、熱くなっていると人は考えているはずである。実際に心臓が強く跳ねて、胸のあたりがカーッと熱くなるときがあるのだから、やはり恋は燃え上がっているのだ。そして、それは非常事態なのである。「変になっている」と言って差し支えない。
 僕にも一昔前まではそうやって心が変になっているときがあったものである。勝手にひとりで燃え上がっては消沈することもあれば、ちょっと燃え上がったかとおもったものの、冷めてしまったこともあるし、冷められてしまったこともある。体感では、僕が冷めたよりも誰かに冷められたほうが圧倒的に多いだろう。なにせ、見た感じの印象と内面のギャップが激しいことで定評のある僕だから、ギャップに萌える人に出くわさない限り、僕は冷められ続けるだろう。といっても、逆に内面しか見ていない読者の皆さんにはそのギャップは伝わりようもないのだけど。

 あまりに冷められ続けてすっかり嫌気が差した僕は「恋愛なんてコスパが悪い」だなんてしょうもないことを言い出したものだが、「恋はそんな理屈でするもんじゃないよ」と咎めてくれた人がいたのは僥倖であった。
 確かにその通りで、恋はまず自分の身を安定させてからだの努力に見合ってないだの、理屈を捏ねてからするものではない。正気でいては恋などできない。狂気を孕んでいなければならない。強い衝動に身を任せる瞬間がなければならない(だからといって、けっして性暴力を肯定するものではない)。その狂気がなければ前に進めない。正気でいるということは、今あるところに留まることをいうのだ。恋はそれを打ち破るために、人の心を変にする。正気でいたら恋なんてバカバカしくてしょうがない。口説き文句もお膳立ても貢ぎ物もなにもかもがバカバカしい。セックスなんてもってのほかである。正気でセックスなどできるものか。その末に子育てなんてとんでもない。子どもにはこの世界で生き残れるようにあらゆる教育を施さなければならないし、生まれ持った障害があったらどうしよう、それに、もし今生まれたとして、この日本に未来があるのか……。などと、子どもが生まれる前どころか、恋人すらいない段階でこんなことを考えるようになってしまった。
 こうしてみんなが正気になってしまったのも少子化の原因のひとつであろう。恋して冷めるどころか、恋そのものに冷めてしまっている。若者たちからは狂気が失われている。あるいは、その方向が別に向くようになってしまったのかもしれない。またあるいは、すでに社会が狂っているから、自分だけはまともであろうとおもっているのかもしれない。

 この新自由主義、能力主義、反出生主義が蔓延る今の世においては、恋に突っ走って結婚し、向こう見ずに子どもをこさえている人を見れば、「おいおいバカなことを……」とおもうかもしれないが、僕はそういう人を否定する気にはなれない。むしろ、「とにかく産んでください、あとはなんとかしますから」という社会にならなかった、できなかったことに対して深い失望と怒りを感じる。彼らにかけるべき言葉は「よくやった!」とか「大変そうやけど、まあ頑張れよ」いった労いや励ましの言葉なのであって、「なぜ結婚したんだ」とか「どうして子どもつくったんだ」などという誹りではないはずだ。
 勢いで突っ走ることを許さない社会が、人を恋愛から遠ざける。恋なんてどうせ冷めるものなのだから、最初っから冷めていたってどうしようもないのにも関わらず、冷めた態度でいるほうが「適応的」だなんてみなされてしまう。人間が繁栄したのは適応力だとよく言われるが、こうした適応力が種の滅びに向かって発揮されるのは皮肉である。
 明日の我が身すらどうなっているかわからないから恋愛も子どもも考えられない、とよく言うが、むしろその逆で、明日の我が身も生きているのが何となくわかっていて、その生活でいっぱいいっぱいなところに、恋愛や子どもが持ち込まれると破綻してしまう恐れがあるから踏み出せないのではないかと僕はおもう。

 僕は恋や結婚や子育ての当事者ではないものの、こうした問題には深い懸念を抱かざるをえないのは、正気に戻って恋を諦めることによって、ますます人間が自身のもつ動物性から遠ざかっているのではないかとおもうからだ。ヒトは人間である前にまず動物であり、自分の全てを正気だとか思惟だとか信念によって御しきれるものではない。ときに説明のつけられない衝動に駆られて行動してしまうことがある。社会はそういった衝動的行動を抑制するくびきであり、相互監視のシステムであり、抵触した人を罰して管理しようとするシステムであるのだが、人はこうしたシステムを作りあげたことによって、人の衝動は管理できる、否、管理されなければならないとまで考えるようになってしまったのではないか。当然、社会生活を営むにおいて一定の規則は適用されなければならない。犯罪は罰されなければならない。しかし、明文化されていないどころか別に禁止されていないこと——要するに、恋愛——にまで、その管理、制御の意識がおよび、面倒ごとにつながるからともはや予防的に避けられようとしてはいないだろうか。
 人間がもつ動物的なものに関する教育が避けられてきたのも、人間が持つ動物性を肯定しにくい原因のひとつであろう。校則や家庭のルールではさんざん不純異性交遊を禁じておいて、それがいざ大学や社会に放り込まれたら「はい、今から恋愛してください」だなんて、規則に従順であった人ほど損をするようになっているではないか。また、性にまつわる知識などは学校の外や親に隠れたところで、アングラの香気漂う「見てはいけない」とされるものから得ることとなれば、性衝動はいっそう秘さねばならないもの、蓋をしなければならないもの、あるいは、もはや持っていてはいけない衝動かのようにおもえてきてしまう。性欲というものは、折り合いをつけるということを考える前に、「持っているだけで悪」扱いされるところまで来てしまった。

 人間がもつ動物的な側面としては食欲も挙げられるが、この食欲がもつ残虐性については、非常に丁寧に隠蔽され、綺麗に飾り立てられているため、ほとんど意識することはない。肉も魚も切り身になって「商品」としてパック詰めされ、元は生きていたことを感じさせないようになっているし、一つのところに同じ植物を集中的に植えるという「不自然」に誰も注意を払わない。むしろ「自然の風景」だなんだと言われて人々に癒しを与えてさえいる。
 東千茅は『人類堆肥化計画』において「動植物の遺体を加工して器にきれいに盛り付け」(p.12)されることで、食欲の裏に隠された残虐な現実を隠蔽しているといった。僕はここで人の食欲を非難したいのではない。むしろ、このあとに続く東の主張と同じく、「人間の涙ぐましい努力と成果にはただただ驚嘆するばかり」(同)である。気持ちの良い食事のためなら、人はどこまでも努力を傾ける。
 では性欲のほうはどうだ。食欲と比べればこちらの隠し方は非常に雑ではないか。年齢制限のカーテンが一枚めくれたらアダルトコンテンツへと直行である。いくら綺麗に恋愛を飾り立ててもその裡にあるセックスを隠しおおせるものではない。いや、『源氏物語』がごとく、その描写を匂わせるだけですますことにより文学性が高まるものもあるが、かえって読者によって欠けた描写を想像する余地を与えていたりもする。食に対してはたらく丁寧な隠蔽が、なぜか性にははたらかない。そりゃそうか、すっぽんぽんでやることなんだもんね。ならばいっそ開き直って性の知識を身につけていることがひとつのステイタスのような学問にしてしまえばいい。今の日本に必要なのは『カーマ・スートラ』だ。

 『カーマ・スートラ』とは、古代インドにおける性愛の心得と技を説いた経典である。『カーマ・スートラ』の訳者である岩本裕は「カーマ・スートラ」序説において、次のように語っている。

彼らにとって(引用者注:古代インド人のこと)性生活並びにそれに関連する諸般の事柄はわれわれが考えている程に秘すべきことではなかった。彼らはむしろ得々と性愛の秘戯を語り愛の実践哲学を論じたことが知られる。
(中略)
「カーマ・スートラ」に説かれる性愛の秘戯も、また求愛の技巧も、そのすべてが人の教養、上品さ、社会的礼儀、高尚な趣味など、人をして洗練され完成された人間たらしめるがために追求せられたのである。

ヴァーツヤーヤナ(著) 岩本裕(訳)『完訳 カーマ・スートラ』p.309〜310 平凡社

『カーマ・スートラ』内の表現を借りれば、「情慾の亢進(昂進)」する場面においては、先に述べたような狂気がはたらいているといえるかもしれないが、『カーマ・スートラ』によって説かれる性愛論について、古代インド人はいたって正気で議論していたのではないか。
 ここは日本で21世紀なのだから、古代インド(『カーマ・スートラ』は4〜5世紀成立といわれる)と一緒にするな、とおっしゃるむきもあろうが、人間なんてそんな1000年2000年で変わるものではないのだから、性愛論を堂々と、正気で話したってよいのではないか。恋はカーッと熱く燃え上がっては人の心を非常事態ならしめ、サーッと冷めては通常営業へと引き戻す。こうした非常時の備えとして、通常時に性愛について論議するというのはなかなかよいのではないか。恋が燃え上がる前にあれこれ考えすぎてすっかり冷めてしまっているよりはよっぽどマシだとおもうのだが、どうだろう。

 恋における狂気の擁護から、とうとう正気でも性愛を語れというところまで行き着いてしまった。狂気という言葉を持ち出すことで読者を身構えさせてしまったのなら反省するが、狂気というワードを持ち出したのにはわけがある。
 恋とはつまるところ、狂気と正気の満ち引きなのである。そして、満ち引きに関係するといえばやはり月だ。狂気的であることを「ルナティック」と言ったりするが、それもまさに月なのである。松岡正剛はルナティックであることは平安文学における「をかし」の感覚だといった(『ルナティックス 月を遊学する』作品社 p.13)。滑稽であるというよりも、興味深く、趣があって、美しく、また優れていることを指す「をかし」である。さきにも引用した通り、『カーマ・スートラ』は「人をして洗練され完成された人間たらしめるがため」に読まれたのであって、単なる性的興味がためだけに用いられたわけではない。『カーマ・スートラ』にも「をかし」が渦巻いているのだ。
 恋にまつわることがらは、人を高みに誘うものでありつつも、やはり人間は動物であることを強く認識させるものであるとして、僕は擁護せずにはいられない。その両価性に引き裂かれそうになりながら、煩悶、呻吟するところがもっとも人間らしいといってもよい。こうして文字にしてみれば、なんともサディスティックに映ってしまうが、別に他人が苦しんでいるのを見て楽しんでいるのではなく、ただ、そこに「ルナティック」=「をかし」を感じているということを表明しておきたい。

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今回の一汁一菜

2026/04/05分(夕食)

・トマトとキャベツの味噌汁
・なめ茸入り卵焼き
・ナスの浅漬け

参考文献

・東千茅『人類堆肥化計画』創元社
・ヴァーツヤーヤナ(著) 岩本裕(訳)『カーマ・スートラ』平凡社
・松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』作品社→中公文庫

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