よくわからないもの、怪しいものに子どもを近づけたくない、できれば触れさせずにおきたいというのは親心であろう。うちの場合は母親がその「子どもに触れさせるもの、遠ざけるもの」を決める権限を握っていたわけであるが、母は良くも悪くも「自分自身」しか物差しを持たない人であって、自身が知らないもの=怪しいものであり、自身が知らないものには子どもを近づけないという判定を下す人であった。その結果、ゲームは周りに遅れること小学4年生になってようやく与えられ、「ゲームは一日一時間・週2回まで」というルールが適用されるに至った。ついでに言えば、パソコンとインターネットの導入は僕が高校生になってからであった。
その代わりと言ってはなんだが、母にとって既知の存在、というか母親自身がテレビっ子だったというのもあってか、テレビ・アニメ・特撮の視聴はまったく制限されなかった。当時(20〜25年ぐらい前)、小さい子をもつ親から毛嫌いされていた番組といえる『クレヨンしんちゃん』だって、『ボボボーボ・ボーボボ』だって、むしろ親のほうが楽しんで観ていたぐらいだし、仮面ライダーも、戦隊も、ガンダムも、すべて親のほうがむしろ率先して僕に見せてきたぐらいであった。おかげですっかりオタクに育ってしまった。
オタクにしたくないからとアニメを見せない親がいる中で、うちの親からすれば、僕がオタクになるのは別に構わなかったようだ。しかし、ゲーム(とネット)だけはやけに厳しかった。むろん、勉強に集中させるためなどという理由で娯楽を一切与えられなかった、という家庭もあるようだから、それよりはマシなのかもしれないが、それでもうちはまあまあ厳しかったようにおもえる。
それはやっぱり、母にとってゲームもネットも未知の存在であり、その影響力を恐れたからであろう。知らないものだから、風評もそのままそっくり受け取ってしまい、当時流行っていた「ゲーム脳」なんかにうちの息子がなりゃしないか恐れていたのであろう。
残念ながら、親が子どもに近づけまいと必死になったものに限って、子どもにとっては理想的なもの、欲しくて欲しくてたまらないものと化してしまい、子どもが長じて親の手を離れると反動が来てしまう。僕の場合はゲームを自分で買えるようになってからというもの、一つのゲームを100時間も1,000時間も遊ぶような人間になってしまった。ありとあらゆるゲームを買い漁ってプレイするというよりは、一つのゲームをやりこんでいくほうに育っただけ経済的であり、まだマシだとおもってほしいものである。
「ポケモンの鳴き声は覚えられるのに、勉強のほうは覚えへんねんな」とは母のセリフである。テレビの特番でゲーム版のポケモンの鳴き声クイズが出て、それに僕が次々と正解するものだから母としては「そんなものより勉強を」とおもったのだろう。古今東西、ありとあらゆるご家庭で同様のセリフが発せられたものと推察する。
好きなこと、趣味のことばっかり覚える一方で、漢字やら年号やら英単語をなかなか覚えない子どもの姿を見て、どうして趣味に向けられる労力や記憶力を勉強のほうに回せないのだろうと考える親は多い。子の目線からすれば、じゃあ自分はどうだったんだと問い質したいものである。自分たちだって子どもの頃はアニメやマンガのことで頭がいっぱいで、勉強よりも熱中して技名やら敵怪人の名前を覚えてたくせに!と言いたくなるものである。僕がもし親になったら「なんで趣味のことは覚えられて勉強はダメなんだ」というようなセリフは言いたくないものである(そして、おそらくこれは破られる)。
ゲームは頭を使わずにできるものと考えている人がいるようだが、それは大きな間違いである。ポケモンひとつとっても、複雑なタイプ相性を体験のうちに覚え、相手に有効な技を選択していかなければならないし、手持ちの6匹のバランスを考えて、決まったタイプのポケモンしか繰り出してこない相手から、あらゆるタイプのポケモンを混ぜて繰り出してくる相手にも柔軟に対応することを求められていく。頭を使わなければゲームをクリアすることはできない。
また、道具(リソース)の管理から、取り返しのつかない要素に対する決断力、繰り返し失敗しても諦めない心と試行錯誤の経験、そして主人公を起点とした物語の追体験など、人生の縮図といってよいものがゲームには詰まっており、それらを現実におけるリスクのない、ゲームという仮想世界で経験できるということは情操教育にも有効ではないかとおもえるほどである。
そして、ゲームを作る人はめちゃくちゃに頭がよくなければならない。それは単に勉強ができるだけではなく、どうしたら他人に楽しんでもらえるのか、どうしたらゲームのルールを画面の要素だけでプレイヤーにわかってもらえるのか、どうしたら次のプレイが待ち遠しくなるのか、といったことを考え尽くす頭のよさである。ゲームクリエイターは、自分だけが遊んで楽しいゲームを作るのではなく、見ず知らずの他人に「おもしろい!」と思ってもらわないといけないのだ。そのためには、自分自身を知るだけでなく、〈人間〉を知る必要がある。
ゲームを作るためには、ゲームとなんの関連もなさそうな哲学、心理学、脳科学、文化人類学、神話学といった種々の学問が動員されており、それらの知見がゲームの皮を被ってわれわれの前に提供されているのだ。この内情は、元・任天堂企画開発者の著者による『「ついやってしまう」体験のつくりかた』で明かされている。この本の中に、かつて任天堂の代表取締役社長を務めた故・岩田聡氏の言葉が引かれている。
「ゲームは生活必需品ではない。だから、驚きが必要だ。」
玉樹真一郎『「ついやってしまう」体験のつくりかた』p.160
ゲームは生活必需品でないからこそ、考え尽くして提供されなければならない。というのが故・岩田聡氏の考えだ。必需品でないものに粒揃いの頭脳を集めるなどということは、一見無駄におもえる営為だが、それを指摘しても無傷でいられる人間はいったいどれくらいいるだろうか。必需品でないものを「生活の潤い」だとか「生活の質が上がる」といった文句で売り出して、いかにも必要そうに見せかけている商売で溢れているではないか。
また、必需品は必需品で、各社競争の結果、性能はだいたい横並びになっており、あとは限られたパイの取り合いになるからこそ、性能以外のところ(要するに「イメージ」)でアピールするようになっている。要するに必需品だからという理由ではもはや買ってもらえず、ブランドアピール、イメージキャラクターという、商品以外のムダな部分で勝負するしかなくなっている。そう考えれば誰もゲームの存在を責めることはできないはずだ。
ゲームには技術だけでなく、クリエイターたちの頭脳の粋が詰め込まれている。生の状態ではとっつきにくい話題・テーマであっても、ゲームの皮を被ることによって、一般人でも受け取りやすい形となり、世に問うことができるようになっている。別にゲームに込められた意味や、人々を虜にするための種々の手法に気づいている必要はないが、それを知った上でプレイするゲームは、ソムリエのうんちく込みで味わうワインがごとき楽しみがある。それを味わえるようになるには、まず舌を育てていかなければならない。子どもの頃からゲームをプレイして、「おもしろかった!」という体験が、味のわかる舌のベースを作っていってくれる。大人になってからだともう遅いのだ。
僕の親世代はテレビゲームを通らずにスマホで初めてゲームに触れるという人が少なくない。スマホゲームは画面の制約か、あまり多くの情報を詰め込めず、操作系統が限られているからか複雑なゲーム性を持つものは少ないし、ゲーム性を複雑にしていくよりも、スキマ時間潰しに特化してポチポチ画面を叩くだけで終わるゲームが多い。そんな画面ポチポチゲームが最初のゲーム体験になってしまうと、テレビゲームのボタンとスティックを操作して物事を進めていくという体験に馴染めなくなってしまう。
去年、僕がNintendo Switch2を買ったので、前に使っていたSwitchを父親にあげたのだが、まったくプレイしている様子がない。A(ないしB)ボタンを押してテキストを進めていく、ということを理解するのにもかなり時間がかかった。また、ゲームをプレイするのに、頭を使うという発想もなさそうだった。父親にとってゲームとは、暇つぶしにポチポチ画面を叩くだけのもののようだ。
ああ、なんたる皮肉か。別に僕の父親はゲームに反対していたわけではないのだが、子どもに対してゲームを制限する立場にあった親の世代のほうが、頭を使わずに遊べるゲームに興じているなんて。
今、小さい子をもつ家庭はどうルールを定めているのだろう。僕の願うところでは、ポチポチするだけのスマホゲームのほうには強い制限をかけて、比較的頭を使ってプレイするゲームが多い、ゲーム専用機のほうを遊ばせるといった方針であってほしいとおもっている。
余談だが、「ゲームは一日一時間・週2回まで」というルールは、中学生の頃には行動範囲が広がり、親が制御できなくなったことと、親が僕に与えたのが携帯ゲーム機であったことで有名無実化してしまっていた。僕はそのルールを破るということで親への反抗を覚えたものである。これもある種、ゲームがもたらした人生経験といえまいか。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/05/09分
スナップエンドウ入り衣笠丼
ぶなしめじ・わかめの味噌汁
参考文献
・玉樹真一郎『「ついやってしまう」体験のつくりかた』ダイヤモンド社










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